第五章 人類の救済
★天使は我々に語りかけている
「もうすぐ、悪魔が来るよ。僕たちといっしょになって地球を取り返そうよ。僕たちを受け入れてくれたなら僕たちは君たちに僕たちの技術をみんなあげるよ」
しかし人類はこれに答えたであろうか。
「なに預言だ、UFO、タイムマシ−ン、未来人、、、、、そんなもんあるわけないじゃないか」
完全無視であった。
いや、今回だけではない。実は未来人は我々に11回以上も預言を与えていたのだ。今回で12回目らしい、だから我々の文明では12という数字が多用されているのだ。
そしてその解答まで与えたのだ。しかし人類はかたくなにこれを拒否し続け悪魔の餌食になってしまう、あんなに苦労してこれだけの作業をしてきたのに。これだけの作業を我々のためにしてきてくれたのは、間違いなく彼ら天使たちなのである。
一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、
神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。
聖書 創世記 28章
「ほら言ったことじゃない、あんなやつらに預言なんて与えても無駄だよ。あいつらに真実なんて理解するのは無理だと言っただろ」悪魔はあざ笑って言う。
天使も彼らの惑星に帰るが、永遠の生命を持つ彼らはたまらなく地球が欲しくなってまた性懲りもなく、こんなことをもう12回も繰り返してきたのだ。
人類全体が救われるには、1980年代の内に地球人の天使受け入れの意志をまとめるべきであった。天使的未来人は地球のすぐそばで待機しているのだ。イエスたちは我々を見守っているのだ。そうすれば、いつでも天使達は地上に降りてくるはずであった。
そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。
またそのとき、地のすべての民族は嘆き、
そして力と大いなる栄光を持って人の子が天の雲に乗ってくるのを、人々は見るであろう。
聖書 マタイによる福音書 24章
人の子、人の子供のような姿の人間の子孫、未来人が、天の雲、UFOに乗って地上に降りてくるはずだった。そして、お互いの理解のもとで悪魔の地球侵略を防げたはずだった。
まただれでも、まず強い人を縛りあげなければ、
どうして、その人の家に押し入って家財を奪い取ることができようか。
縛ってから、はじめてその家を掠奪することができる。
聖書 マタイによる福音書 12章
悪魔的未来人は地球人をまず、ぐるぐる巻きにしばった後、抵抗できない状態にした後、宇宙から降りてきて、地球を乗っ取り我々を奴隷にしてしまったのだ。もう我々の未来ではそうなっているのである。
友人である天使的未来人がそれから解放される方法を預言として授けたのに。それだけではない、もし彼らを受け入れれば彼らの持つすべてを与えると言っているのに。
友人である天使達は我々の服にこっそりと宝の珠を縫い付けておいてくれたのに、我々はそんなこととはまったく知らず悪魔の奴隷、永遠の奴隷にされてしまうのだろうか。本当に豚に真珠である。
★真・開目抄−宗教指導者に告ぐ
イエスは、何のためにペテロに教会を造らせたのであろうか。時が来て事の真相が解明された時、その通りだと言って協力させるためである。キリスト教だけではなく、これは仏教寺院、イスラム教寺院についても言えることではないであろうか。しかるにこの有り様はどうであろうか。
聖書や他の教典を暗記するほど読んでいる人がいるというのに、、、彼らは神の幻想に酔っているんだ。まさか自分たちの神や仏が宇宙人や未来人だなんて、そんなこと知りたくもないし聞きたくもないのである。
わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、
ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
その日には多くの者が、わたしにむかって、
「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。
また、あなたの名によって悪霊を追い出し、
あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」
と言うであろう。
そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、
「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」
聖書 マタイによる福音書 7章
空虚な幻想の神だけを追っていても仕方がないのだ。本当の救い主、イエスやシャカは、今宇宙船の中で我々を待っているのだ。そんなことも知らない、いや知りたくもない宗教指導者たちをノストラダムスはこう言っている。
ひとみはとじ
古代の幻想があけられ
孤独の着物は何ももたらさず
大君主はかれらの狂乱を罰するだろう
寺の宝を奪いさるまえに
諸世紀2−12
「ノストラダムス予言原典 諸世紀」 大乗和子 訳
まさにその通りではないか、ひとみは閉じ古代の幻想の神に酔いしれているのである。本物のイエスやシャカにあなたがたは気づけないのか。新興宗教にしてもそうである。もう、21世紀に人を驚かす奇跡、力あるわざはいらないのだ。奇跡を起こす力は存在するとは思う、しかしもうそんな人を驚かすためのものなどはいらないのだ。我々はもう2000年まえの原始人ではない。未来人が我々に真実をかたりかけているのに。
宗教指導者に警告します、あなたがたは人々をどこへ連れて行こうとしているか知っていますか、未来を知っていますか。もうすべての宗教はその製作者である未来人に返す時が来たのです。イエスはあなたがたのことを痛烈な皮肉を込めてこう言っています。
彼らをそのままにしておけ。
彼らは盲人が盲人を手引きする盲人である。
もし盲人が盲人を手引きするなら、
ふたりとも穴に落ち込むであろう。
聖書 マタイによる福音書 15章
イエスだけでなく、日蓮も言っているではないですか。
未来を考えざることはあたかも盲人が前を見ざるがごとくである。
中略
過去、未来を知らなければ、父母・君主・師匠の後世を救うことはできない。
日蓮御書 開目抄
イエスがユダヤ教の教会の中に入って暴れたのは、現代人のこんな姿を見たからなのだ。人類と天使たちを救済するためのプログラムである宗教を食い物に、金もうけの手段にしているやからがどれほど多いことか。
それから宮にはいり、商売人たちを追い出しはじめて、彼らに言われた、
「わが家は祈りの家であるべきだ」と書いてあるのに、
あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった。
聖書
ルカによる福音書 19章
神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、
神殿の黄金をさして誓うなら、果たす責任がある
聖書 マタイによる福音書
23章
知らなかったなら仕方ないのかもしれないが、もう我々は宗教へのこだわりを捨てて、彼らを迎え入れなければならない時代になったのだ。
世尊よ、わたくしたちは過失を告白いたします。
「われわれは完全なさとりに到達した」とは、
世尊よ、まさしく愚かで、間抜けで、常識のないことです。
それは何故かといいますと、
わたくしたちは如来の智慧に従って「さとり」に到達すべきであったにもかかわらず、
このような小さな智慧で満足していたからであります。
法華経 五百弟子受記品
いや、悪いのはあなたたちではないかもしれない。嘘を言ったのは、だましたのはやはり天使の方なのである。しかしそれは自分たちだけではなく過去の我々もいっしょに救うために直接言えなかったことを譬えを使って言ったのだ、方便を使ったのである。この方法しかなかったのである。
では、シャーリー=プトラよ、汝はどのように考えるか。
かの人は最初に子どもたちに三種の乗り物を約束しておきながら、
後にはそれぞれに最も勝れた乗物だけしか与えなかったのは、
かの人が嘘を言ったことにはならないだろうか。
シャーリー=プトラが言った。
世尊よ、嘘を言ったことにはなりません。
仏よ、決してそうではありません。
いずれにせよ。かの人は巧妙な手段を用いて、子供たちを燃えさかる家から脱れさせ、
生命を救ったのですから、この理由でかの人は嘘を言ったことにはならないでしょう。
法華経 譬喩品
宗教指導者のみなさん、あなたがたは私たちの敵ではないと私は信じます。あなたがたはそれが人類のためだと宗教を広めてきたのであろうし、普通の人より多くを勉強して来たはずです。それに宗教や宗派を開いた多くの聖者たちは天使(地涌の菩薩)の前世の人間であったようにあなたがた宗教指導者の中にも天使の前世の人間(仏の化身)が多く含まれているのではないかと思われます、本人も気づいていないかもしれませんが。
どうか、神や仏やイエス、シャカ、宗教、宗派を開いた聖者たちの名において彼ら天使を受け入れていただけないでしょうか、そして世界を本当に救うための指導者になっていただけないでしょうか、どうかお願いいたします。
いったい、一人の盲目の眼をあける功徳すら申しようがないほどである。
いわんや日本国の一切衆生の眼をあける功徳をや。
いかにいわんや一閻浮提四天(この世界全体)の人の眼の見えないのをあける功徳をや。
日蓮御書 乙御前御消息
・
このまま我々は
悪魔の奴隷になるだけだろうか
我々の時間の世界はもうだめである。天使の申し出を拒否してしまったのだ。
後は悪魔が天使が植えた言葉の真意を気づかない愚かな人々、毒麦、すっぱいぶどうを刈り取るだけであろうか。
また、見ていると、見よ、白い雲があって、
その雲の上に人の子のような者が座しており、
頭には金の冠をいただき、手には鋭いかまを持っていた。
すると、もうひとりの御使が聖所から出てきて、
雲の上に座している者にむかって大声で叫んだ
「かまを入れて刈り取りなさい。
地の穀物は全く実り、刈り取るべき時がきた。」
雲の上に座している者は、そのかまを地に投げ入れた。
すると、地のものが刈り取られた。
聖書 ヨハネの黙示録 14章
雲、UFOには乗っているが、この人の子のような者は天使ではない、闇の御使、悪魔である。彼らの姿を見て欲しい。頭に金の冠をいただきとは、悪魔は王になったこと、神になったことを暗示している。聖書の中で王は神だと何度も言っているではないか。
彼らは永遠の生命とタイムマシ−ンを完成し神になったことを暗示している。これは天使にも言えることである、だからイエスのことを王の中の王、神の中の神と言うのだ。しかし、彼が天使ではなく、悪魔である理由は手に持っている物である。鎌は悪魔の持ち物である。
よい実を付けない毒麦、すっぱいぶどうは、悪魔により刈り取られるのだ。これでは救いはないではないか。このまま我々は悪魔の奴隷になるだけであろうか。
★預言は二重構造になっていた
安心して下さい。あなたはこれを理解し天使的未来人を受け入れれば、救われます。
その救われる方法とはイエスのこの言葉にあるのです。
人の子が現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。
聖書 マタイによる福音書 24章
ノアの箱船とは、元の歴史のスペ−スシャトル、宇宙ステ−ションの譬えではなかったのか。我々もスペ−スシャトルで宇宙ステ−ションにでも逃げろとでも言うのであろうか。
そう言えばイエスもこんなことをいっている。
荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば、
(読者よさとれ)、
そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
聖書 マルコによる福音書 13章
荒らす憎むべき者とは悪魔的未来人である。そしてその悪魔的未来人がたってはならぬ場所、
地球に立ったならば、悪魔的未来人が地球に来襲した時は、山に逃げなさい。
本当に山に逃げて助かるのであろうか。ソドム、ゴモラが神により破壊された時も、ロトは山に逃れて助かっている。
彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、
「のがれて、自分の命を救いなさい。
うしろをふりかえって見てはならない。
低地にはどこにも立ち止まってはならない。
山にのがれなさい。
そうしなければ滅びます」。
中略
主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、
これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、
その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。
聖書 創世紀 19章
山に逃げれば助かるのであろうか。いや、山に逃げたところで助からない。
聖書では山は宇宙を象徴していることを思い出して欲しい。
ではどうやって宇宙にのがれよと言うのか、まだ宇宙ステ−ションさえ完成していないのに。
実はソドム、ゴモラの話もノアの箱船も、出エジプトも、元の歴史のスペ−スシャトル、宇宙ステ−ションを意味しているだけではない、もう一つの意味を含んでいたのだ。預言は二重構造になっていたのである。
★ノアの箱船
ここでノアの箱船の話をもう一度検証してみよう。
地上に人が増え始め世に悪がはびこり始めたので神はこれを滅ぼすことにした。
神は心正しいノアに箱船を造るように命じる。
そして神は40日の間、雨を降らせ、洪水を起こして地上の物をすべてあらいさった。
これは、元の歴史の不要人類抹殺計画の比喩である。ノアの箱船とはスペ−スシャトルや宇宙ステ−ションの比喩である。陰謀を実行した人々は、種としての人類を保存するための神聖な計画としてこれを実行したのである。しかし、失敗し宇宙に閉じ込められそこで死を迎える。世代交代をするのだ。
出エジプトをしたモ−セたちもそうであった。シナイの砂漠に入り、40年後許されて約束の地、パレスチナ(カナン)に入る。40日は40年を表していたのだ。40日は世代交代を表していたのだ。
一人の男の物語として書かれているノアの箱船にノアは死に、その子の時代になったとは書きにくかったので、ここに40日と言う数字を持ってきたのである。
アララト山の山頂に箱船は着き、水はひいていく。
ノアは箱船の窓を開き、カラスを窓から放すが、カラスは帰ってこなかった
カラスの後にはとを放すが、はとは足を留める場所がなかったので帰ってくる
再びはとを放すと、はとはオリ−ブの小枝をくわえて帰ってくる
これは宇宙での世代交代の後、その子孫、カラス、悪魔的未来人は地球を征服して帰ってこなかったことを表しているのではないか。そのあと平和の象徴であるはと、天使的未来人が地球に帰って来る。
タルシシの船よ、泣き叫べ、ツロは荒れ果てて、家なく、船泊まりする港もないからだ。
聖書 イザヤ書
23章
雲のように飛び、はとがその小屋に飛び帰るようにして来るものはだれか。
海沿いの国々はわたしを待ち望み。
タルシシの船はいや先にあなたの子らを遠くから載せて来、
また彼らの金銀を共に載せて来て、
あなたの神、主の名にささげ、
イスラエルの聖者にささげる。
主があなたを輝かせたからである。
聖書 イザヤ書
60章
かつて地球を破壊し帰る港をなくした船は、はと、平和の使者として地球に帰って来たのだ。しかし時すでに遅し、地球はカラス、悪魔的未来人に征服されていたのである。だからはとは足を留める場所を見つけられずにすごすごと引き返していったのである。
亡命者たち 天から火が彼らの武器に
つぎはカラスどもの争いだろう
地上から救いを求める声
神のお助けを祈る声
侵略者が城壁に近づく時
諸世紀3−7
「ノストラダムス全予言」Eチ−タム著 流智明 監修
ノストラダムスもはっきりと次はカラスだと言っているではないか、宇宙の亡命者が地上に天からの火を放った次はカラスが来るのだ。侵略者が軽々と城壁、地球の防衛網を突破して来るのだ。
そしてはとがオリ−ブの小枝をくわえて帰って来たのは、いずれ平和のもとに地球を奪回するぞという希望が込められていたのだ。
久しく天に灰色の鳥が飛び
ドールとトスカンの近くで
小枝をくちばしにはさんで
そのとき大いなる者が死に戦いは終わるだろう
諸世紀1−100
「ノストラダムス予言原典 諸世紀」 大乗和子 訳
その後ノアはどうなったであろうか。
さてノアは農夫になり、ぶどう畑をつくり始めたが、
彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
聖書 創世紀 9章
ノアの箱船から降りたノアはぶどう畑を造り始めた。これはどう意味であろうか。陰謀を実行した人々の子孫は天使になり、この世を彼らの畑として言葉という種を植えたのである。
いつか預言が解読され人々に受け入れられ神の国というぶどうが実るように、悪魔帝国というすっぱいぶどうにならないように。
だからイエスは言う。
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、
父がすべてこれをとりのぞき、
実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、
手入れさしてこれをきれいになされるのである。
あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。
聖書 ヨハネによる福音書 15章
イエス達、天使達はすっぱいぶどうにならないように願って預言の言葉を植えたのである、どうか預言の真意を分かってくれよと願って。だからイエスは十字架の上ですっぱいぶどう酒を飲むことを拒否したのだ。
さて、「彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。」とはどういう意味なのだろうか。まず、酒に酔うとはどういうことだろうか。酒に酔って真実が分からない状態をになったということである。陰謀を実行した人々はこれが人類のためなのだと酔っぱらって陰謀を実行したのだ。
ノアの箱船の最後の部分は彼らの祖先の罪を告白していたのだ。
地球独占というぶどう酒に酔い正常な判断ができなかった天使達の祖先は、陰謀を実行してぶどう酒、地上の人々の血で祝宴をあげてしまった。その結果、天幕、天の幕屋、宇宙ステ−ションに何も持たない裸で取り残された。この裸というのは、アダムとイブの裸と同じである。
このようにノアの箱船とは、不要人類抹殺計画のみならず、天使、悪魔の正体まで告白している物語なのである。イスラム教の開祖マホメットもその教典コーランの中で言っているではないか。
以上(ノアの説話)は、
元来、窈冥界のはなし(普通の人間には知ることのゆるされない神の世界に属すること)であるが、
特に我らが汝(マホメット)に啓示してつかわすものである。
これまで、このようなことは全然知らなかったであろう、汝も、汝の一族も。
さらば、辛抱づよくせよ。
まこと、最後の(勝利)は懼敬のこころ敦き人々のもの。
コーラン フード
★空中携挙(ラプチャー)
ノアの箱船とは、確かにスペ−スシャトル、宇宙ステ−ションの比喩だった。元の時間の世界での不要人類抹殺計画の比喩であったのだ。
しかし、我々が悪魔の手からのがれる方法は書かれていなかったではないか。
もう我々の時間の世界では不要人類抹殺計画はない。このことはノアの箱船の話の中でも語られている。
わたしがあなたがたと立てるこの契約により、
すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、
また地を滅ぼす洪水は、再び起こらないであろう。
聖書 創世紀 9章
もう洪水、不要人類抹殺計画は再び起こらないのである。確かに我々は核の炎に焼かれる心配はなくなった。しかし、今度は悪魔が攻めてくる。地球人全体の天使的未来人の受け入れ態勢が整わない今、我々は我々の命を魂をあきらめなければならないのか。
我々は悪魔の支配のもとで、永遠の奴隷として生きていかなければならないのか。
いや、そんなことはない。慈悲深い天使は我々を助けて下さる、彼ら天使を仲間として受け入れさえすれば。ノアの箱船にはもう一つの意味が込められていたのだ。預言が二重構造になっていたのだ。天使はノアの箱船で心正しい人を救ってくれるのだ。
これを空中携挙、ラプチャ−と言う。神は心正しい人々を天に引き上げ救うというのだ。
スペ−スシャトルで天、宇宙の宇宙ステ−ションに上り、自分達の命を救った陰謀を実行した人々も確かに空中携挙、ラプチャ−ではあったが、本当の空中携挙はそんなものではない。考えてもみてくれ、天、宇宙に上った人々は生き残ることはできた、しかし本当に救われたのであろうか。いや、彼らはひと思いに殺されるよりずっと苦しい思いをして死んでいったのだ。では本当の空中携挙とはどんなものか見てみよう。
それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引きあげられ、
空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるのである。
聖書 テサロニケ人への第一の手紙 4章
本当の空中携挙とは雲でおこなわれるのである。思い出してほしい雲とはUFOではなかったのか。そう、本当の空中携挙はUFOで行われるのだ。
ノアの箱船のもう一つの意味とはUFOだったのだ。
今、本物のイエスを乗せたUFOが地球のすぐ外で待機しているのだ義人、自分達を受け入れてくれる人を救出するために。
★天使の惑星
地球から救出された人々はどこに行くのであろうか、再び地球に戻ってこれるのだろうか。
天使の根拠地とする惑星は、プレアデス星団やシリウス星系にあるのではないかと思われる、だが地球に帰ることはできない、少なくとも今は無理である。
まもなく悪魔的未来人がやってきて悔い改めて天使を受け入れようとしない人々に鉄槌を下す。地球は悪魔の物になってしまう。救出された人々、天使によってその命を贖われた人々は、天使の根拠地である惑星に行くしかないのである。
だだし残念ながらそこでは、人間は人間ではいられない。宇宙人になってしまう。
化け物になるくらいならそんな所に行きたくないよと言う人もいるだろう、その通りである。
天使もできればすべての人間を連れて行きたい。しかし行きたくない者を無理に連れて行くわけにもいかない。そんなことをすれば、来たくもないのに誰がこんな所に連れてきたんだと噛み付かれるのが落ちである。天使のがわとしても彼らの社会をみだすやからを彼らの社会に入れるわけにもいかない。せめて真実を理解し、彼らを受け入れる人間でなければ。
自分を受け入れてくれない人間と永遠に暮らせますか。
マイナス面だけを強調してしまったが、永遠の生命も、彼らの持つ科学技術もすべて我々に与えてくれるのだ。悪魔は我々に何も与えず、我々を労働力としか見てはいないが、天使は我々を対等の人間として扱ってくれるのだ。彼ら天使は我々の教師であり、友人である。
少なくとも過去にさかのぼって、これだけの作業をするのには六千年はかかる。これだけの作業してくれる者が敵だと言えるであろうか。我々もそろそろ、彼らの存在、隣人の存在に気づいてあげてもいいころではないか。いや、気づかなければならない。
「先生、何をしたら永遠の生命を受けられましょうか」。
彼に言われた、
「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか。」
彼は答えて言った、
「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります。
聖書 ルカによる福音書 10章
★仏教教典もまた空中携挙を説いていた
空中携挙について述べているのは何も聖書だけではない。実は仏教教典にもそのことは述べられていたのだ。我々がそれに気づかなかっただけである。
仏教教典を読んでみると、仏教の説く仏国土とは天使の惑星について述べたものらしいのだ、または彼らが地上に建国しようとしている神の国、地上天国について。そのいくつかを見てみよう。
その国土は手の平のように平坦で、七宝づくりで山はなく、
七宝づくりの家が満ちているであろう。
そして、神の楼閣が虚空に甍をつらね、神も人間を見るであろうし、
人間も神々を見るであろう。
また、そのとき、僧たちよ、この仏国土には罪悪はなく、
また婦女子もいないであろう。
この国土にいる人々はみな自然に生まれた者で、
純潔を守って修行し、意志のままになる身体をもって自身から光明を放ち、
神通力をもち、空中を飛行し、勇気があり、前世の記憶を持ち、理智があり、
その身体は金色に光り輝く三十二の偉大な人間の吉相で飾られているであろう。
法華経 五百弟子授記品
自由自在な智慧と表現の蘊奥を極めているであろう。
かの仏国土にいる衆生はすべて清浄となり、
純潔を守って修行するであろう。
かれらはすべて自然に生まれた者で、金色であって、
三十二の勝れた吉相を具えた姿をもつであろう。
そこでは、教えを悦び、瞑想を楽しむ心のほかに、
食物に対する意識はないであろう。
そこには、婦女子もいないであろう。
また、不運と苦難の生活の恐怖もないであろう。
完全無欠な徳を具えたプ−ルナの勝れた国土はこのようである。
法華経 五百弟子授記品
西方に、幸福の鉱脈である汚れないスカ−ヴァティ−(極楽)世界がある。
そこに、いま、アミダ−バ仏は人間の御者として住む。
そして、そこには女性は生まれることなく、性交の習慣は全くない。
汚れのない仏の実子たちはそこに自然に生まれて、蓮華の体内に坐る。
かのアミタ−バ仏は、汚れなく心地よい蓮華の胎内にて、
獅子座に腰をおろして、シャ−ラ王のように輝く。
彼はまたこの世の指導者として三界に匹敵する者はない。
わたしはかの仏を賛嘆して、
「速やかに福徳を積んで汝のように最も勝れた人間(仏)となりたい」と祈念する。
法華経 観世音菩薩普門品
「その国土は手の平のように平坦で、七宝づくりで山はなく、七宝づくりの家が満ちているであろう。そして、神の楼閣が虚空に甍をつらね、」
天使たちは、どこかの惑星を平に整地し、その上にガラスのような物質でパックした中に建造物を建てて住んでいるのだ。その上空、虚空を神々の楼閣、UFOが飛び回っているのだ。そして「神通力をもち、空中を飛行し」と言う言葉がこれを証明している。
「この仏国土には罪悪はなく、また婦女子もいないであろう。この国土にいる人々はみな自然に生まれた者で」、「そこには女性は生まれることなく、性交の習慣は全くない。汚れのない仏の実子たちはそこに自然に生まれて、蓮華の体内に坐る」天使たちには男も女もないのだ。彼らは生殖能力を失い、彼らの体を再生する時は細胞培養装置を使いその中から自然に生まれるのだ。
仏教では、この仏国土に我々が生まれ変ると言うのだ。
かれらは他の世界に住む如来たちに見守られ、加護されている。
また、かれらはそれぞれに、信仰の力と善根の力とをもっているのである。
これらの良家の息子や娘たちは、如来と一緒に僧院の同じ所に居住する者となるであろう。
そして、かれらは如来の手で頭を撫でられるであろう。
法華経 法師品
ある求法者が、如来の住居に入り、如来の衣服をまとい、如来の座に坐って、
この教説を四種の会衆に説き明かすべきである。
バイシャジャ ラ−ジャよ、如来の居室とは何か。
すべての人々を憐れむ心の状態が如来の住居である。
そこに良家の息子は入るべきである。
法華経 法師品
余の仏国土には神と人間たちが充ち溢れるのだ。
そこには、幾千万の遊園・楼閣・鳳れんがあって、
かれらはさまざまの娯楽と愛欲のたのしみがあり、
天空では神々が楽器をかなで、またマンダ−ラの花の雨を降らす。
花の雨は余と弟子たちに降りかかり、
また「さとり」を求めて努力する他の賢者たちにも降りかかった。
余の国土はいつもこのような状態なのだ。
法華経 如来寿量品
この経典を書写する人々、またその意義を理解する人々は、
世尊よ、この経典を書写したのちに生まれ変るときには、
三十三天の神々の仲間となって生まれるやいなや八万四千の天女たちが
かれらの傍に近づいてくるでしょう。
さらに、これらの人々は天冠をかむって、
天子となり、天女たちの真中で暮らすでありましょう。
法華経 普賢菩薩勧発品
また、この世から生まれ変わって、偉大な志を持つ求法者マイトレ−ヤ(弥勒)の住むトゥシタ天の神々の仲間となって生まれるであろう。
そして、そこでは、三十二種の勝れた吉相を具えた者となり、求法者の集団に囲まれて、幾千万億という天女から敬われて、教えを説くのだ。
法華経 普賢菩薩勧発品
では、どのようにしてこの世界に生まれ変わるのであろうか。
「われわれは二人の如来から遠く離れている。
われわれも如来の威光によって空中に昇りたいものだ」と。
そこで尊きシャ−キャ ムニ如来はこれら四種の会衆たちが心の中で考えていることを察して、そのとき神通力によって四種の会衆たちを空高く昇らせた。
法華経 見宝塔品
これを仏教では虚空会というが、まさにこれはキリスト教の空中携挙ではないか、ラプチャ−ではないか。これも当然である聖書と仏教教典の作者は同一人物なのだから。
★グランドクロスは神の国の扉
空中携挙は、いつ行われるのであろうか。それはノストラダムスのグランドクロスが起こる時である。なぜならグランドクロスは神の国の扉だからだ。
四匹の獣が不動の住処に帰る頃
神の国の扉落ちて明かりを閉ざす時
ルビ−色の光、天よりの炎の玉を貫く
そして、翼司る将軍たち戦列をとく
しかし、災いは彼らのもくろみを越える
エメラルドタブレット
元の歴史の世界では神の国の扉が落ちて明かりを閉ざしてしまった。陰謀が実行されて一人も幸せになれる人はいなかったのだ。しかしこのグランドクロスは、呪いの十字架ではなく神の国の到来を約束する祝福の十字架だったのだ。このことは旧約聖書にも書かれている。
彼らのうちの君は、やみのうちに壁に穴をあけて、そこから出て行く。
彼は顔をおおって、自分の目でこの地を見ない。
わたしはわたしの網を彼の上に打ちかける。
彼はわたしのわなにかかる。
わたしは彼をカルデヤびとの地のバビロンに引いていく。
しかし彼はそれを見ないで、そこで死ぬであろう。
中略
ただし、わたしは彼らのうちに、わずかの者を残して、つるぎと、ききんと、疫病を免れさせ、彼らがおこなったもろもろの憎むべきことを、彼らが行く国びとの中に告白させよう。
聖書 エゼキエル書 12章
これはバビロン捕囚の預言である。バビロン捕囚とは、BC586年、ユダ王国はバビロニアに滅ぼされ、生き残ったユダヤの人々はバビロニアの首都バビロンに囚人として連れて行かれる。しかし、この預言をよく読むと元の歴史の世界の不要人類抹殺計画について書かれている。
地球の君、世界の支配者たちは闇の中でこっそりと計画を立てて地球から出て行った
顔を覆って秘密裏の内に、地球に残された人々のことなど顧みないで。
しかし陰謀に失敗し網に掛かるように宇宙に捕らわれてしまう。
彼らは神のわなにかかる。
彼らはカルデア人の首都バビロンに引いて行かれる、宇宙の果てに引いて行かれる。
しかし彼らの子孫が宇宙の果てに連れていかれるのを見ずに、彼らはそこ、宇宙ステ−ションの中で死ぬ。
だだし、彼らのうちのわずかな者を残して、つるぎ、核戦争と飢饉、宇宙での食糧不足、疫病をまぬがれさせて天使にして、彼らの祖先が行った憎むべき不要人類抹殺計画を、彼らがタイムマシ−ンで行く国、過去の地球の人々の中に告白させる。
どうであろうか、バビロン捕囚の預言がそのまま元の時間の世界で行われた不要人類抹殺計画に当てはまるではないか。バビロン捕囚が、いやユダヤ人の歴史が自体が、天使的未来人、イスラエル人の過去を告白する預言になっているのだ。
その後、新バビロニアはペルシアにより滅ぼされ、ペルシアのクロス(キュロス)二世の手によりユダヤの人々は解放される。
わたしは受膏者クロスの右の手をとって、もろもろの国をその前に従わせ、
もろもろの王の腰を解き、とびらをその前に開かせて、門を閉じさせない、
と言われる主その受膏者クロスにこう言われる。
「わたしはあなたの前に言って、もろもろの山を平らにし、青銅の扉をこわし、鉄の貫の木を断ち切り、あなたに、暗い所にある財宝と、ひそかな所に隠した宝物とを与えて、わたしは主、あなたの名を呼んだイスラエルの神であることをあなたに知らせよう。
聖書 イザヤ書 45章
これは、クロス二世によってユダヤ人が解放されることを預言したのではない、表面上はそうであるが、本当はクロスとはグランドクロスのことではないであろうか。扉とは、エメラルドタブレットに書かれている神の国の扉ではないであろうか。
グランドクロスの時、神の国の扉を開けて、門を閉じさせない。
山を平らにしとは山を平らにすれば山に登れない、宇宙に登れない。不要人類抹殺計画を阻止することを暗示しているのだ。陰謀を阻止し、青銅の扉をこわし、鉄のかんの木を断ち切り、暗い所にある財宝、ひそかな所に隠した宝物、永遠の生命、超科学を与える。
まさに、扉、神の国の扉とはイエスが「たたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」と言ったあの門の扉なのである。
求めよ、そうすれば、与えられるであろう、
捜せ、そうすれば、見いだすであろう。
門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
すべて求める者は得、捜す者は見出し、門をたたく者はあけてもらえるからである。
聖書 マタイによる福音書 7章
★UFOを見てからでも遅くない
実際に信じる者は救われるということが起きてしまうのだ。確かにこの救われると言う意味は、従来のキリスト教徒が求めていたものとは違うけれども。ただし、救われるのは真実を理解し天使を仲間として受け入れた者であり、天使といっしょに住んでもよいと思う者なのだ。
単に神や仏を信じる人々ではない。いくら神や仏を信じる者と言えども真実を理解し天使を受け入れなければ、天使とて受け入れようがないのだ。
人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼は栄光の座につくであろう。
そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊とやぎを分けるように、
彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。
そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、
『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、御国を受けつぎなさい。
中略
あなたがたによく言っておく。
わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、
すなわち、わたしにしたのである』。
それから左にいる人々にも言うであろう、
『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、
悪魔とその使とのために用意された永遠の火に入ってしまえ。
中略
あなたがたによく言っておく。
これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、
すなわち、わたしにしなかったのである』。
そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう。
聖書 マタイによる福音書 25章
神に従う従順な羊ではなく、自分の信じる神や仏が最高で、イエスの兄弟である最も小さい者(天使的未来人)を認めず受け入れない強情なやぎは、天使とて受け入れようがないのだ。右、天国(天使達の社会)に行くグループに入れるわけにもいかず、左、悪魔に手渡すグループ、地獄行きのグループに入れる以外ないのである。
次に右組の人々、刺なし潅木と下から上までぎっしりなったタルフの木の間に(住んで)、
長々と伸びた木陰に、流れてやまぬ水の間に、豊富な果実が絶えることなく、取り放題。
中略
次に左組の人々、これはどうかと言うに、熱風と熱湯を浴び、黒煙濛々と頭上を蔽う、
が、(木陰でもないから)涼しくもなく、気持ちよくもない。
コーラン 恐ろしい出来事
イスラム教の教典「コーラン」でも右と左は同じ意味で使われているではないか。
「よくよくあなたがたに言っておく。
羊の囲いにはいるのに、門からではなく、
ほかの所からのりこえて来る者は盗人である、強盗である。
門からはいる者は羊飼いである。
門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。
そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。
自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。
羊はその声を知っているので、彼について行くのである。
ほかの人は、ついて行かないで逃げ去る。
その人の声を知らないからである」。
イエスは彼らにこの比喩を話されたが、
彼らは自分たちにお話しているのが何のことだか、わからなかった。
聖書 ヨハネによる福音書 10章
近い将来空中携挙が開始される。それは、門からではなく他の所から盗人、強盗である悪魔的未来人が地球を強奪に来るからである。悪魔的未来人の地球侵略の前にイエスたち天使的未来人は自分の羊の名を呼ぶのだ。テレパシ−を発して真実を理解した者を呼び集めるのである。
しかしほとんどの人は言うだろう。こんなSFじみた話は信じられない、確かにそのように書いてあるかもしれないが。それだったらUFOを出せ、天使的未来人を出せ、そうしたら信じてあげるよ。
そこで、対面(最後の審判の日に神と対面すること)を望まぬ者どもは、
「それならわしらのところへ天使が下されるとか、
直接神様の姿が見えて来そうなものではないか」などと言う。
コーラン 天啓
天使はきっと人間が分かってくれると思って書いたが、人間の立場からすれば分かろうはずがないのだ。いや、分かりたくもないのかもしれない。
「彼らは見るには見るが、認めず、
聞くには聞くが、悟らず、
悔い改めて許されることがない」
聖書 マルコによる福音書 4章
このままではほとんどの人が救われない。悪魔の餌食になってしまう、、、、、、、、、、、、、、、
お見せしましょう、UFOを、天使的未来人を。それからでも遅くないのだ。グランドクロスの後、空中携挙は始まる。その時、UFOを、天使的未来人をお見せしましょう。
いよいよ本当に天使たちが目の前に現れて来る日(最後の審判)になったら、
あの罪つくりども、もう絶対に嬉しい言葉など聞かせては貰えまい。
コーラン 天啓
それに天使たちもみな証言に立つであろう、証人はアッラーだけで充分であるが。
コーラン 女
主が臨御し給い、諸天使また隊伍堂々入場し、
そこへジャハナム(ゲヘナ)が持ち込まれて来る(地獄を巨大な釜にみたてている)、
その日こそ、さすがの人間もはっと気がつく。
コーラン 暁
その時は我々の言うことを理解して下さい。真実に目覚めれば天使の声、テレパシ−はきっと聞こえるでしょう。天使はあなたの搭乗を待っています。
また言われた、
「よくよくあなたがたに言っておく、
天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、
あなたがたは見るであろう」。
聖書 ヨハネによる福音書 1章
あなたがたは、心を騒がせないがよい。
神を信じ、またわたしを信じなさい。
わたしの父の家にはすまいがたくさんある。
もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。
あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
そして、いって、場所の用意ができたならば、
またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。
わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。
聖書 ヨハネによる福音書 14章
天使らが次々に降りて来て、
「怖がることはない。心配することはない。
前々から約束されていた楽園に入って心ゆくまで楽しむがよい」
コーラン わかりやすく
そしてすべての天使たちが戸という戸から彼らのもとに入ってくる。
「汝らに平安あれ、よくこれまで辛抱してこられたな。」
そして、終の住処のなんと心持よいこと。
コーラン 雷鳴
信仰し、正しい行いにはげむ人々は我らが天国に高殿に宿を与えようぞ。
コーラン 蜘蛛
★天使の姿と空中携挙
イエスはこれらのことをすべて、譬えで群集に語られた。
譬えによらないでは何事も彼らに語られなかった。
聖書 マタイによる福音書 13章
そう言えば、このクルーアン(『コーラン』)の中で我らは人々のために種々さまざまな譬え話を打ち出した。なんとかしてはっと悟らせやろうと思って。
コーラン 群なす人々
ブッタが語ったもろもろの言葉と詩頌、過去の出来事、本生譚と奇蹟物語を、
因縁譚を、また歌ならびにブッダの示唆を語り、幾百の素晴らしい比喩を用いよう。
法華経 方便品
預言はすべて譬え、比喩、すなわち象徴技法で書かれた。私は以前からなぜ黙示録に出て来る天使の姿が、百パーセント宇宙人の姿と一致しないのか不思議に思っていた。
それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。
そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。
その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。
その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、
顔は、強く照り輝く太陽のようであった。
聖書 ヨハネの黙示録 1章
確かにこの天使の姿は、宇宙人と類似性はある、しかし宇宙人には、雪のように白い羊毛のような髪の毛もないし、彼らの口からは両刃の剣など出てはいない。これはいったいどうしたことであろうか。
もちろんあまり正確に彼らの姿を描いてしまうと簡単に彼らの正体がばれてしまうこともあるが、それだけではないように思われる。預言は、象徴技法で書かれたのだ。この姿にも深い意味が込められていたのだ。羊とはキリスト教において重要な意味を持つ動物ではないか。イエスたち天使は、よき羊飼いとして羊、人類を導いてきたのではなかったのか。雪のように白い羊毛のような髪の毛とは、このことを暗示していたのだ。また口から出ているもろ刃の剣とは何であろうか。天使は、口、言葉で戦う。人間を介した天使と悪魔のこの戦いが、武力による戦いではなく、言葉による諜報戦であることを暗示しているのであろう。
では、燃える炎のような目、火で精練された光輝くしんちゅうのような足とは何を意味しているのであろうか。当然のことであるが炎、火とは、核戦争を暗示している。彼らがあの不要人類抹殺計画による核の炎をくぐり抜けたことを意味していたのだ。
そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精練された金を買い、
また、白い衣を買いなさい。
聖書 ヨハネの黙示録 3章
彼らは、核の火をくぐり抜け、決してさびない金に精練されたのである。決してさびて朽ちることのない永遠の生命を手に入れたのである。しかし天使の足は、永遠の生命を表わす金ではなく、さびて朽ち果てるしんちゅうであるのはどういうわけであろうか。
それはイエスの次の言葉に対応しているようである。
もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。
両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。
〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕
もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい、
中略
もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜きだしなさい。
両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。
聖書 マルコによる福音書 9章
イエスのこの言葉は、空中携挙、ラプチャーの心がまえを言っているのである。もし手が、足が、目が、、体の一部が罪を犯させるのであれば、それを切り捨てて天に上って神の国に入りなさい。もしあなたの体の一部でもある愛する者が聞き従わず罪を犯させるのであれば、そんなものは切り捨てて天に上って神の国に入りなさいという意味である。彼ら天使は未来から来た者もいるが、前の時間の世界で自分の体の一部である愛する者を切り捨てて天に上った者も多いのである。天使の足が永遠の生命を表わす金ではなくしんちゅうであったのは彼らのこの苦悩を象徴していたのだ。
静かなる夜、山の頂に満月がのぼり
新しい頭脳をもった知識ある人が現れ
不死なることを弟子たちに示す
彼の目は南に、手と身体は火に
諸世紀4−31
「ノストラダムスの遺言書」 ダニエル・ルゾー著
流智明 監修
自分の体の一部である愛する者たちを、目をえぐり抜き南(過去)に残してきたのである。
手などの体の一部である愛する者を切り捨てて地獄の火で焼いてしまったのである。
★子供は救われるか
荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、
そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。
屋上にいる者は、下におりるな。
また家から物を取り出そうとして内に入るな。
畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。
その日には身重の女と乳飲み子を持つ女とは不幸である。
聖書 マルコによる福音書 11章
空中携挙、ラプチャーがおこなわれる時、人は自分の命のみを購うことができる。その時には愛する身内の者と言えども、彼ら天使と唯一の神を認めない者は救いようがないのである。上のイエスの言葉は、その時には何も持たず身ひとつでUFOに乗り込めといった意味である。
ちょっと待ってくれ、物事を理解できない小さな子供を持つ親はどうすればよいのであろうか。「その日には身重の女と乳飲み子を持つ女とは不幸である」とあるように彼らは、妊婦や小さな子供を救うつもりはないのであろうか。いや、慈悲深い天使たちのことである、きっと救って下さる。ただし条件がある、天使としても彼らの社会を乱す人間を彼らの社会に入れるわけにもいかない、どちらかの親でも、真実を理解しその親が子供を天使たちの社会を乱さない立派な人間に育てるという責任を負うことである。これに関してはハッキリとは書かれていないが、我々はこれだけの仕事をしてくれた慈悲深い天使を信じる以外ないのである。
では、なぜ、「その日には身重の女と乳飲み子を持つ女とは不幸である」などと言う言葉をイエスは残したのであろうか。
それはもし我々が我々の心を改めなければ、未曾有の艱難が我々を待ち受けているからなのだ。そのことに関しては後に詳しく述べることにしよう。
未来からの最終警告 第6章に続く「救世主とは何か」
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