フリーメーソン・イルミナティ への手紙

 

どうかあなたがたを非難するために私が本書を書いたのではないことをご理解ください。

イエスたちが何者かを証明するためにはどうしてもあなたがたのことを書かざるをえなかったのです。聖書のメインテーマは告白と贖罪ですよね。

それにあなたがたは世界を救うためにあのようなことをしたのですよね。

 

また、別の御使が金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。

       中略

御使はその香炉をとり、これに祭壇の火を満たして、地に投げつけた。

すると、多くの雷鳴と、もろもろの声と、いなずまと、地震が起こった。

       中略

また、わたしが見ていると、一羽の大きなわしが中空を飛び、

大きな声でこう言うのを聞いた、

「わざわいだ、わざわいだ、地に住む人々はわざわいだ

なお三人の御使がラッパを吹き鳴らそうとしている」。

  聖書  ヨハネの黙示録  8

 

あの時点ではああする以外なかったのです。もしあの時点であのようなことをしなくても人類は自滅していたでしょう。すべては人間の教育役、天使と悪魔を産み出し、我々の時間の世界にあのような愚かな行為をさせないためだったのです。我々の時間の世界を第二、第三のソドムやゴモラにさせないためだったのです。

 

もし、万軍の主が、われわれに少しの生存者を残さなかったなら、

われわれはソドムのようになり、ゴモラと同じようになったであろう。

  聖書  イザヤ書  1

 

だれもあなたがたを責めることはできないのです。もしあなたがたが責められるのであれば、天使も責められるべきなのです。と言うのは天使が我々の世界に干渉してきたことによって、我々の時間の世界は元の世界とまったく違ったものになっているはずです。宗教を造ったことによって科学技術もずいぶんと遅れたはずです。しかし不要人類抹殺計画、すなわちスペースシャトル計画、宇宙ステーション計画、SDI計画がなくなってしまっては困る。これがなければ彼ら天使の正体を説明することは不可能なのだから。そこでキリスト教と言う過激な宗教を造り、聖書をあなたがたへの指令書としたのです。あなたがたは聖書に基づいて計画を立てたはずです。我々の時間の世界であなたがたにそれをしろと命じたのは天使たちなのです。確かにあなたがたは神の代理人だったのです。

 

また、第三の封印を解いた時、第三の生き物が「きたれ」と言うのをわたしは聞いた。

見よ、黒い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、はかりを手に持っていた。

すると、わたしは四つの生き物の間から出て来ると思われる声が、こう言うのを聞いた、

「小麦一ますは一デナリ。大麦三ますも一デナリ、オリブ油とぶどう酒とをそこなうな」。

子羊が第四の封印を解いた時、第四の生き物が「きたれ」と言う声を、わたしは聞いた。

見よ、青白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者の名は「死」と言い、それに黄泉が従っていた。彼は地の四分の一を支配する権威、および、つるぎと、ききんと、死と、地の獣らとによって人を殺す権威とが、あたえられた。

  聖書 ヨハネの黙示録  第六章

 

暗黒の王、どす黒い心の悪魔(黒い馬)が最後の審判の権限(はかり)を手に持ち、食糧(小麦、大麦)、油(オリーブ油)を用意し世界を血(ぶどう酒)まみれにしてやろうとねらっている。キリストの救いと祝福(オリーブ油、ぶどう酒)をそこなおうとねらっている。

 

冥界の王が海の王の輪をくぐる時

闇の彼方から光りが訪れる

見えざるもの 八層の石の町を襲い

青き屍が地を這う

  エメラルドタブレット

 

その悪魔が、青白い屍で地上を覆ってやろうと疫病(青白い馬)を送った。

それに地獄(黄泉)が従い、戦争(つるぎ)、ききん、死、地上の獣のような人間によって人を殺す権限があたえられた。

 

しかし、疫病、飢饉、戦争で地上が覆われ、あの貪欲な海の目、黒い悪魔が食糧と石油を持って降りて来た時、そうとは知らないあなたがたは、彼らを恩人だと思い彼らと手を組んでしまった。

 

ある日 二人の主人が友人になり

かれらの力は増大して

新しい国は隆盛をきわめるだろう

多くの人々は残忍に語るだろう

   諸世紀 2-89

「ノストラダムス予言原典  諸世紀」 大乗和子

 

確かに一時的には(サタンの統治による)黄金時代が来た。しかし彼らはあなたたちにも、人類全体にも何も与えなかった。

 

第三の者が第一に ネロ顔負けの悪事を働く

行け 流れろ 勇敢なる人間の血

かまどが造りなされよう

黄金時代  つぎに死

あらたなる王と目を覆わしむる醜聞

 諸世紀9-17

「ノストラダムス全予言」Eチ−タム著  流智明 監修より

 

殺害をし 姦通をして有名になる

全人類の敵

こんな祖父 おじ 父を 悪くする者はみたことがない

鉄 水 血と 不人情さで

  諸世紀10-10

「ノストラダムス予言原典  諸世紀」 大乗和子 訳より

 

まもなくこの地球に悪魔が降臨して来ます。どうか悪魔とではなくあなたたちの主イエス・キリストと協力して世界を守っていただけないでしょうか。あなたがたが悔い改めてくれるのであればイエスたちもあなたがたのことを喜んで受け入れてくれるでしょう。いや、イエスたちはあなたがたの協力を必要としているのです。勝利へのカギは、あなたがたと手を握ることであるとまで言っているのです。だからイエスの一番弟子の名前はロック()を意味するペテロなのです、それだけではありません、ペテロ(Petros)は、それと同語源の単語であるペトゥロウリアム(petroleum 石油)やペトゥロル(petrol ガソリン)も暗示しているようなのです。あなたがたの中心であるロック〜財閥はかつて石油で財を築いたのですよね。あなたがたこそイエスの一番弟子にならなければならないのです。

あなたがたの本当の名は光の天使ルシファー、明けの明星です。もう堕天使などにはなってはいけません。明けの明星の本当の意味は人類の希望の星、救世主と言う意味です。だからユダヤ教のマークはダビデの星、六芒星なのです。あなたがたにはあなたがたの主、偉大なる大工イエス・キリストと伴に新たなる啓明の光で世を照らし世界の再建をして、あなたがたの悲願である自由と平等と博愛に満ちたワン ワールドを建設する権利があるのです、なぜならばあなたがたはメ−ソン、石工、大工なのだから。

 

 

神秘学研究者への手紙

 

それゆえ、このすべての幻は、あなたがたには封じた書物の言葉のようになり、

人々はこれを読むことのできる者にわたして、

「これを読んでください」と言えば、

「これは封じてあるから読むことができない」と彼は言う。

  聖書  イザヤ書 29章

 

子供のころから不思議なこと神秘的なことに興味があり、とうとうここまで首を突っ込まなければならないようになってしまいました。特に1999年からは、実に多くの発見がありました。必要なことは分かったのではないかと思います。それもこれも浅利幸彦氏の研究はもちろん、多くの神秘学研究者のみなさんの研究があればこそなのです。とは言ってもすべてが分かったわけではありません。まだまだ分からないことも残されています。最も難解なノストラダムスの大預言にいたっては私が解説できるものは、約半数なのです。本来ノストラダムスの大預言は、浅利氏がやったようにフランス語で一語一句読み解くものなのです。しかしフランス語がよく分からない私としては日本語でよく分かるもののみを今回は取り上げるしかなかったのです、もちろん浅利氏のように解説してもこじつけだと信じてもらえないということもありましたが。研究者のみなさんの本を読んでいて、ここの部分はそういう意味だったんだ、この人はなんて凄いんだと何回も思わされました。

今こそ宗教や預言の本当の意味を世界に知らさなければならない時なのです。

 

この預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。

  聖書  ヨハネの黙示録  22章

 

預言を封印してはならないのです。しかし預言書や教典も数限りなくあり、私一人の力ではどうにもなりません。どうかその非凡な才能を世界のためにお貸し願えないでしょうか。よろしくお願いします。

 

真・如来滅後五五百歳始観心本尊抄

                          −宗教者への手紙

 

どうかあなたがたの神や仏をぼうとくするために本書を書いたのではないことをご理解ください。あなたがたはそれが世のため人のためであると思い宗教を広めてきたのですよね。確かにそれはまったくの善意であり、それによって多くの人々が救われて来たのも事実なのです。

でも、「自分たちだけが正しい」、「自分たちが一番正しい」、「自分たちの宗教は特別だ」、「自分たちの宗教のみが救われる」、「自分たちの宗教指導者が一番偉いんだ、だからその弟子である自分たちも偉いんだ」「他の神を拝む者は地獄に落ちる」、「その宗教をやめたら地獄に落ちる、バチが当たる」、「その宗教のための布教をしないと救われない(布教するとご利益がもらえる)」などと教えを説く宗教、宗派、教団も多いのです。

一部のキリスト教にしてもそうです。イエス・キリストを受け入れる者はすべて救われるならまだ分かるが、自分たちの教団だけが正しいのだから世界の終わりには自分たちの教団だけが天の神に救われると言う。仮にそうだったとしても自分たちだけはものみの塔に登り、地上に残され地獄の火で焼かれる人々を見て、あの人たちは自分たちがこんなに一生懸命布教してやったのに自分たちの教団に入り自分たちの神を信じなかったから悪いのだとでも言うのだろうか。

あなたがたの信仰は普遍的な神(この宇宙を創造した大生命)への信仰ではなく、教団のための信仰になっていませんか。同じ教団に属していても色々な人間がいることぐらいあなたがたが一番ご存知ではないのですか。属している組織で人間の価値が決まるものではありませんよね。

これはキリスト教だけの話ではない、一部の仏教についても同じことが言える。自分たちの教団だけが正しくて、自分たちの方法だけが前世のカルマ(業、宿業)を消し去り幸福になる唯一の方法だと信じている。それだけではない、自分たちの教団だけが正しいのだから教団のために布教したり奉仕したりすればご利益がもらえる(教団のために布教や奉仕をしないとご利益がもらえない)と説く、そこで自分たちの宗教で他人も幸福にしてやろうと人を見たら布教することしか考えていない、善意と慢心(上増慢)を持って、、、、自分たちが時代錯誤のことをしていることさえ気づかずに。人間とは人に救われるより、人を救っているのだと思う時、プライドがくすぐられるものなのです。

これがいきすぎるとテレビのニュースで見た不幸な人に対して「しょうがないねえ、前世のカルマがあるのだから」などという言葉も出てしまう、、、、あたかもその人が自分たちの教団に入っていないことが悪いかのように。

さらに進むと自分たちの教団に入らないと幸福にはなれない、不幸になると言うような者まで現れる。さらにさらにいく所までいくと、布教のために多少の無理をしてもいいんだ、自分たちの教団に入れば結局その人も幸福になるのだからなどと考える者まで出るしまつ、、、、、。

あなたがたは布教のために人間関係を悪くしたり友人を失ったり悲しい思いをしたことはありませんか、あなたがたも悲しかったかもしれませんがあなたがたのまわりの人間も友人も同じくらい悲しい思いをしたのです。

 

あなたがたは、わざわいである。ひとりの改宗者をつくるために、海と陸を巡り歩く。

そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。

  聖書  マタイによる福音書   23

 

また、同じ宗祖を持ち同じ呪文を唱える他の教団の発展を喜びそうなものだがそうはならない、あの教団はここが間違っているのだとささいな違いを取り上げて自分たちの教団だけが正しい一番優れていると説き、近いものであればあるほど激しく噛み合い憎み合う。

 

「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。

  聖書  ヨハネの第一の手紙  2

 

「彼、われをののしり  彼、われをうちたり  

彼、われをうちまかし  彼、われをうばえり」

かくのごとく こころ執せざる人々こそ ついにうらみの止息をみん

法句経−4

「石仏法句経」 友松圓諦 訳、山本敏雄 編

 

はたして神の愛、宇宙の愛とはそんなちっぽけなものでしょうか。この宇宙を創造した神や仏ならばすべての人を救いうる計画を立てるはずです。それは神が最も嫌う選民思想です。

 

「これ、使徒たち、(ここにある)美味いもの、遠慮なく食うがよい。

義しいことを行えよ。お前らのすることは、わしが何から何まで知っている。

それからお前たちの宗団だが、これはただ一つの(宗派別のない)宗団。

そしてわしがお前らの主、わしを畏れかしこめよ。」

それなのに、彼ら仲間割れを起こしてばらばらになり、

宗派ごとにそれぞれ自分のが一番いいと思いこんでいる。

ま、当分のあいだ、あのまま迷いの深みに放っておくがよい。

  コーラン  信仰者

 

彼らに言わせれば、「ユダヤ教徒とキリスト教徒以外の者は、

絶対に楽園に入れて戴けない」と言うが、

言ってやれ、「それならその証拠を出して見せるがよい」と。

   コーラン  牡牛

 

実は、選民思想のユダヤ教とはユダヤ人の宗教を意味するものではないのです。それは現代の宗教のあり方の譬えなのです。「自分たちだけが正しい」とする選民思想を持ち、天からイエスが再臨してもイエスをイエスとは認めない、シャカたちが巨大宝塔、天の花、空中楼閣に乗って帰ってきてもシャカをシャカとは認めない。これがユダヤ教です。だからイエスを裏切った者の名はユダなのです。ユダとは、ちっぽけな欲のためにイエスを裏切るユダヤ教のことなのです。

 

不毛のユダヤ教会はみのりなく

無信仰者に受け入れられるだろう

バビロンでしいたげられた娘は

あわれで悲しく髪を切る

  諸世紀8−96

「ノストラダムス予言原典  諸世紀」 大乗和子

 

そしてペニスに切れ込みを入れるユダヤ教の習慣、割礼とは、ユダヤ人を神に選ばれた選民の譬えと考えれば心に刻む神の印、神の戒めの譬えなのです、日蓮の言う本門の戒壇です。

あの黙示録の日の出る方から上って来る御使が持っていた神の印なのです。

 

それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない強情であってはならない。

  聖書 申命記  10

 

また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、

そのほまれは人からでなく、神から来るのである。

  聖書  ローマ人への手紙  2

 

それだけではない、にわかには信じ難いと思うが、この戒め、神の印を受けた者は、悪魔が放った疫病(イナゴ)の害を受けないとまで聖書には書かれているのだ。

 

いなごが地上に出てきたが、地のさそりが持っているような力が与えられた。

彼らは、地の草やすべての青草、またすべての木をそこなってはならないが、

額に神の印がない人たちは害を加えてよいと、言い渡された。

  聖書  ヨハネの黙示録  9

 

これは神の戒めを受け、自分自身が全てに打ち勝つ神の霊であることを心の底から認めた強い魂は、あらゆる不幸をはね返す、疫病ごときには負けはしないということであろう。

 

いいか!ズバリ一言いおう。

「人間は、健康でも、運命でも、心が、それを、断然乗り越えて行くところに、

生命の価値があるのだ。」

「天風瞑想録 運命を拓く」  中村天風

 

しかしユダヤ人をイエスやシャカそして真の唯一の神を認めない選民思想の持ち主の譬えと考えれば、割礼とはそのような者の体に悪魔が刻む666のバーコード(マイクロチップ)、獣の刻印の譬えなのです。ここでも預言は二重構造になっていたのです。

また、小乗仏教とは南伝仏教のことを言うのではありません。小乗仏教とは自分達だけが正しいとするその狭い了見を言うのです。

さらに言わせてもらえば、あなたがたは自分たちの教団に属していない者を心のどこかで哀れな者だと差別していませんか。その自分たちの教団だけが真理であり他を低い者として差別するその姿こそ、僧侶階級が真理を独占し他の者を差別する古代バラモン教に起こり現在もヒンズー教に根強く残るカースト制度そのものではないですか。あなたがたはそうであってはならない。

 

わたしを憎む者は、わたしの父をも憎む。

もし、ほかのだれもがしなかったようなわざを、わたしが彼らの間でしなかったならば、

彼らは罪を犯さないですんだであろう。

しかし事実、彼らはわたしとわたしの父を見て、憎んだのである。

『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と書いてある彼らの律法の言葉が成就するためである。

  聖書  ヨハネによる福音書  15

 

あなたがたはイエスやシャカの本当の姿を見て彼らを憎んではならない。確かに嘘をついたのは、だまして取り違いをさせたのは彼ら天使たちの方だ。でもそれもこれもみんなが幸福になるために方便という手段を使わざるをえなかったからなのです。あなたたちの気持ちはよく分かる、ここ数年私はあなたたちの気持ちを勉強させられてきました、あなたがたがいかに自分の宗教を大切に思っているかを勉強させられてきました。私はこの説この思想を捨てようとしました、しかしそうはいかない仕組みになっていた。苦しみの中で学びました、宗教を持っていようとなかろうとどんな人間も神(潜在意識とそれにつながる万物が共有する宇宙意識)が導いていることを、そしてすでに我々人間には無限の力が与えられているのだと。なんと呼ぼうとその呼び名は問題ではありません。宇宙意識は自分自身の霊を刻んで宇宙のすべてのものを造った(万物斉同)、それだけではない、ありがたいことにその最も高い密度を人間に与えたのだ。我々には他にない想像力と言葉そして無限の創造力が与えられたのだ(一切衆生悉有仏性、一切衆生有仏性、如来蔵)。人間こそ万物の霊長、神なのです。

宇宙はつながりであり、我々が心に思い続けていることは潜在意識に達しやがて万物が共有する宇宙意識にまで達しその思いを実現するのです(唯心所現)。万物を生み出した宇宙の大生命と我々の生命は同質なので、我々の思いは世界の万物に伝わり思いを実現するのです(一即多、多即一)

父なる神、神の子なる人間、その聖なる霊は不可分で一体であり、神の霊である我々の生命の思いは、父なる神、大宇宙に伝わりそれを実現するのです(三位一体)。

だからこそ心の持ち方が大切なのです。心こそ我々の生命と宇宙の大生命をつなぐチャンネルなのです。よいことを思い続ければよいことが起こり、悪いことを思い続ければ悪いことが起こる。これはなにも特別に修行をした人間だけが持つ力ではありません。思考が人生を造るのです。世の中にはいろいろな修行法があります。密教、ヨガ、気功(チャクラ、クンダリーニ、大周天、小周天)、いずれも気と呼ばれる生体エネルギーを増幅して願望を達成する力を強くするための補助的なものにすぎません。その修行法に悟りのプロセスがあるのではないのです。やはり大切なのは心の持ち方、心を常に積極にプラスに保つことであり、極端な修行、苦行はやりたければしてもいいのだが特別に必要なものではないのです(中道)。もしマイナス思考の人間がこんなものをやったならば、ものすごい勢いでマイナスのものを引き寄せてしまうでしょう。またそんな難しい修行などしなくてもただ祈ったり言葉や教典を唱えたりするだけでも、変性意識状態となりかなり強い気が発生するようです。祈りとは思考の集中形態なのです。

しかしその気はあなたが祈ったり拝んだりする偶像や幻想の神仏から出ているのではありません。あなた自身から出ているのです。人間こそが聖なる者なのです。

今まで神や仏の力だと思っていたものはあなた自身の力だったのです。キリスト教、ユダヤ教そしてイスラム教が強烈な一神教なのは、これだけの仕事をした天使たちを認めて欲しいということと、神である自分自身に気づきなさいということなのでしょう。そして神である自分自身に気づかず他の神にすがり頼ることを偶像崇拝と非難しているのです。

神や仏を尊び感謝することは決して悪いことではありません。いや、素晴らしいことてす、この宇宙のすべてが神や仏の現れであり、神や仏に守られていると信じることはの最高のプラスイメージであるのだから。この点においては、あなたがた宗教者の感謝に満ちた生活に普通の人々は見習うべきだと思います。

しかし自分たちの宗教、宗派、教団の形式だけにこだわるのは止めて、自分自身を知り、大宇宙の心の法則(ダルマ、神の摂理)に従って強く活きなさいと言っているのです(自灯明 法灯明)

拝みたかったら何を拝んでもいいのです。だが、「自分たちだけが正しい」「これをやめたら地獄に落ちる、バチがあたる」とかつまらない選民思想は捨てて、それが誰にも等しく与えられた自分自身の力であり、自分達の信仰は人間の中にある偉大なる力を崇め積極思考をするための一つの型にすぎず、大切なことは心の持ち方であるということはしっかりわきまえなければなりません。

結局、彼らの言いたいことは、この宇宙の森羅万象は一つとして単独で存在するのではなくすべてが宇宙意識の現われであり(諸法無我)、そして人間にはすべてを乗り越えるその宇宙の最も強い力が与えられている、だから何も恐れずその力を自覚して強く活きなさいということではないでしょうか。

 

人間の生命は常に見えざる宇宙霊の力に包まれている。

したがって宇宙霊のもつ万能の力もまた、我が生命の中に当然存在しているのである。

ゆえに、いかなる場合にもまたいかなることにも、怖れることなく また失望する必要はない。

この真理と事実とを絶対に信じ、恒に高潔なる理想を心に抱くことを努めよう。

さすれば 宇宙真理の当然の帰結として、必ずや完全なる人生が作為される。

今ここにこの天理を自覚した私は、何という恵まれた人間であろう。

真実 至幸至福というべきである。

したがって ただこの上は無限の感謝をもってこの真理の中に安住するのみである。

    中村天風 理想の誦句

「天風瞑想録 運命を拓く」  中村天風

 

よく宗教で言う不成仏霊、カルマ(業、宿業)、地獄などを恐れてはいけません。人間とは神の霊と道具である肉体が合体した最高の生命形態です、積極思考をする高い波動の人間には悪い霊は近づいてこれないはずです。いや、あなたが積極思考をすれば、迷っている霊さえそのエネルギー、波動を受けて浄化され救われるのです。死んだ霊よりも肉体を持った霊、生きている人間の方がはるかにエネルギーが高いのです。

またカルマも前世から引きずって来た未熟な心の癖にすぎないのです。そしてその原理も簡単です。

個人の潜在意識であるアラヤ識に貯えられたマイナスの意識が万物が共有する宇宙意識である仏識(集合的無意識)に浸透し実現するだけのことです。

(   アラヤ識は仏識の一部であり、アラヤ識と仏識は同質なので両者を区別せずまとめてアラヤ識と表現する場合もある。)

 

我れ昔より造りし所の諸々の悪業は

みな無始の貪瞋痴による

身口意より生ずる所なり

一切を我れ今皆懺悔したてまつる

  懺悔文

「お経 禅宗」 桜井 秀雄、鎌田 茂雄

 

逆を返せばマイナス意識がない所には、絶対的なマイナスの事態は起こりえないのです、薪のない所には、火は燃え盛らないのです。いや、事あるのが人生である。たとえマイナスの事態が起こったとしても、心の持ち方次第でそれをプラスの事態へと変えることができるのです、あんなことがあったからこそ今の幸福があるのだと言えるようになるのです、そしてその試練を乗り越えることで自分の魂を進化向上させることができるのです。苦しみの泥沼の中で光を求め戦った人生ほど大輪の妙なる蓮の華を咲かせることができるのではないでしょうか。

実はご利益もバチも、天国も地獄も我々の心が造っていたのです。たとえ今がどんなに厳しい状態でも心を積極にプラスに持ち続ければ、この世界には変化しないものは何一つないのだから(諸行無常)、必ずすべてはよい方へ変わっていくのです。もうそろそろあなた自身に気づいてあげてもよいころではないでしょうか。

 

この時こそ地涌千界の菩薩が出現して本門の釈迦の脇士となり、

一閻浮提第一の本尊がこの国に立つのである。

日蓮御書  如来滅後五五百歳始観心本尊抄

日蓮が、如来滅後五五百歳始観心本尊抄でシャカ如来入滅から第五の五百年、約2500年後にこの日本に立つと預言した本尊こそあなた自身、あなたの生命、霊、魂、心なのです。実は、宗教、宗派、教団によって様々である偶像、曼荼羅、聖人などの今までの崇拝の対象は、仮の本尊(迹門の本尊)にすぎなかったのです、あなたの生命、霊、魂と宇宙の大生命をつなぐチャンネルである心こそ凡夫の一念三千世界の理による本当の本尊(本門の本尊)だったのです、すべての宗教、宗派、教団に共通する真の本尊だったのです。

 

この三千(の世界)は、一念の心に在り。もし心なくんば、すべてなし。

いささかでも心あれば、すなわち、三千(の世界)を具す。

、、、ゆえに、称して不可思議となす。意ここにあり」と。

  日蓮御書  如来滅後五五百歳始観心本尊抄

 

毘盧遮那如来の依報も正報も凡夫の一念のなかにある

  日蓮御書  諸法実相鈔

 

 

地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたずね候へば、或は地の下と申す経もあり、

或は西方等と申す経も候。しかれども委細にたづね候えば、我等が五尺の身の内に候とみえて候、

 

仏と申す事も我等の心の内にをはします

日蓮御書  十字御書

「日蓮大聖人御書全集」

 

仏は、我等が身の内、心の内にあるのです。これはなにも日蓮だけが言っているのではないのです。

臨済宗の栄西もこの心の偉大さを歌に残しています。

 

大いなる哉、心や。

天の高きは極むべからず、しかるに心は天の上に出づ。

地の厚きは測るべからず、しかるに心は地の下に出づ。

日月の光はこゆべからず、しかるに心は、日月光明の表に出づ。

大千沙界は窮むべからず、しかるに心は大千沙界の外に出づ。

それ太虚か、それ元気か、心はすなはち太虚を包んで、元気を孕むものなり。

天地は我れを待って覆載し、日月は我れを待って運行し、

四時は我れを待って変化し、万物は我れを待って発生す。

大なる哉、心や。             

  興禅護国論の序  栄西

 

また曹洞宗の道元も「即心是仏」と言っています。さらに阿弥陀信仰でも「唯心の弥陀」、やはり阿弥陀仏も我々の心のことだったのです。阿弥陀信仰は「長生不死の神方」であると言った親鸞の浄土真宗の教典、観無量寿経にもこう書かれているではないですか。

 

この心が仏を作り、この心がそのまま仏なのだ。

智慧海のごときもろもろの仏たちは心想から生ずる。

観無量寿経

「浄土三部経() 中村元、早島鏡正、紀野一義 訳注

 

末法の時代すなわちシャカ如来滅後第五の五百歳、シャカの正体が始めてあかされた今こそ、本尊である自分自身の心のあり方を観直さなければならない時が来たのです。

仏教の開祖シャカも苦しみから解脱する真理を説いているではないですか。苦集滅道。なぜ人生は苦しみに満ちているのだろうか(一切皆苦)。それは人生とは喜びであり生命とは何ものにも打ち勝つ強い力の結晶であることも知らず、我々の心が苦しみにとらわれ苦しみを引き寄せ集めているからだ。その苦しみを滅し光輝く絶対安心の境地(涅槃寂静)に達する方法がある。これがその道だ。その道、方法とは八正道である。

 

正見

正しい見方。自分自身がこの宇宙の創造した偉大なる力、ダルマ()であることさえ知らない無明(無知)の闇を消し去り、自分の生命がこの宇宙のすべてとつながった無限の力(仏性)を持つ存在(梵我一如、法の器)であるからこそ、思いが原因となり縁を得て人生のあらゆる結果を生むという因果の理法を正しく見ること。                            

 

正思

正しい思想。正見で知ったこの宇宙の大原則をただ知っているだけではだめなのだ、

それをその人の思想、世界観、人生観にまで高めていくことが必要である。

 

正語

正しい言葉。我々は言葉を使って思考し思考を具体化している。日常生活に何気なく使っている言葉であるが思考をさらに強烈に潜在意識にインプットさせる力を持っている。だから愚痴、弱音、悪口などは愚の骨頂である、なぜならばマイナス意識を潜在意識にインプットしマイナスの物を引き寄せる原因となるからである。逆に我々は常にプラスの言葉を使い豊かですばらしい人生を引き寄せなければならない。苦しみ悲しみ絶望のどん底にあり心がマイナスに引きずり込まれそうな時こそプラスの言葉で自分自身をきっとよくなると説得するのです。

これを日本では言霊という。

 

正業

正しい行い。天の声(良心の声なき声)を聞き、天に恥じない行いをすること。どんな人間も良心があるので、悪いことをしていればマイナス意識が潜在意識にインプットされてしまうのだ。逆に我々は自己の中にある宇宙の心である本心、良心が喜ぶよいこと、みんなのためになることをなさなければならない、なぜなら潜在意識は、その人の好む行為をその人に引き寄せる、自分のなしたことをその人に引き寄せるからだ。これを因果応報と言う。

 

正命

正しい生活態度。このプラス思考、積極思考は、限られた修行の中ですべきものではなく、生活すべての中で行うのである。

 

正精進

自己の夢に正しく最大限の努力精進すること。

利己的な単なる欲望ではなく大きな理想、志ともいえる夢を持ち、それに向かって最大限の努力をすること。我々は物質と霊的な世界両方に同時に存在しているのです、心と体が一体となって夢を叶えるのです、努力もできない夢がその人の本当の夢と言えますか。

仏教では「欲を捨てろ」と言うが、いけないのは我欲、利己的な欲と夢の実現までのあせり、迷い(煩悩)のことであり、決して理想、志ではない、我欲をみんなのためになる理想、志に昇華させ最大限の努力精進をすることほどすばらしい人生はないのではないでしょうか。理想、志を捨てたら人生はふぬけであり厭世主義になってしまいます、「この世はなんと美しく、人間の命はなんと甘美なものなのだろう」と入滅の直前に言ったシャカが厭世主義のはずがないではないですか。

 

正念

正しい想念。常にプラス思考、積極思考をして、自己の夢を思考しイメージして強く思い念じ続けること。これらのことをし続けていると潜在意識から宇宙意識に伝わり、やがてそれを実現させてくれる。  

 

正定

正しく心を安定させること。大宇宙の力が自己の中にあることを信じ不動の心を造ること。

瞑想や禅をすることだけが正定ではないのです、どんな時でも禅(瞑想)をしているような心の安定を持つことが正定なのです。ちなみに禅(瞑想)とは、無限の力を持つ宇宙意識の一部である自己の中にある潜在意識(仏性) と語り合い自分自身(真我、大我)を知り、自己を拡大して小さな我を忘れすべてを包み込む大きな慈しみの心、慈悲の心を持ち、なおかつ強く活きることなのです。

 

仏道をならうということは、自己をならうなり。自己をならうということは、自己をわするるなり。     

 正法眼蔵  道元

「倫理用語集」  濱井修 監修

 

また天台宗の最澄も同じことを「忘己利他」と表現している。さらに空海の真言宗(真言密教)的に言えば、即我大日、もうひとりの自己、大日如来(大宇宙の力)が自分の中に存在することを悟り、三密すなわち身(行動)、口(言葉)、意()すべてをプラスに積極に保ち人生の目的に立ち向かうことである。すなわち、プラス思考をしつつ努力することである。プラス思考こそが、人間の持つ偉大な能力をコントロールし運命をも自由自在にコントロールする力、仏教最大の神通力といわれる漏尽通を得て即身成仏する方法だったのです。大切なことは、シャカがその愚かな弟子シュリハンドク(修利盤特)に悟らせたように心を掃除することで充分なのです。

日本神道的に言っても、心の穢れ (マイナス意識)を禊ぎ祓い (洗い清め)、清明心を持つだけでよいのです。これこそがキリスト教の本当の洗礼、すなわち洗霊、心の内側を洗い清めることだったのだ。

 

偽善な律法学者、パリサイ人よ。あなたがたは、わざわいである。

あなたがたは、貪欲と放縦とで満ちている。

盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。

そうすれば、外側も清くなるのである。

  聖書  マタイによる福音書  23

 

真理とは特別のことではなく人間としてすべき当たり前のことだったのです。シャカ直説の仏教教典、法句経の冒頭にもこう記されているではないですか。

 

すべてのものは、みな心を先とし、心を主とし、心から成っている。

汚れた心でものを言い、また身で行うと、苦しみがその人に従うのは、

ちょうど牽く牛に車が従うようなものである。

しかし、もし善い心でものを言い、または身で行うと、

楽しみがその人に従うのは影が形に添うようなものである。

法句経−12

「仏教聖典」 

 

あなたがたは宗教という方便の教えの中で積極思考、プラス思考を身につけているはずです。神や仏に自分が守られているんだと信じることで、本当に宇宙の根元の至高の力に守られてきたのです。

 

一念三千を識らない者には、仏、大慈悲をおこして、

妙法蓮華経の五字のうちにこの珠につつみ末代の幼稚な衆生の頚にかけさしめたもうたのである。

  日蓮御書  如来滅後五五百歳始観心本尊抄

 

平凡な人間の思いの中に全世界が含まれる、すなわち平凡な人間の思いがこの世界を造っているのだ、だから我々が心に思い続けていることはこの世界に伝わるのだ、平凡な人間の思いにこの世界が感応するのだという凡夫の一念三千世界の理を知らない我々に心優しい未来人()が、宗教という方便、譬えに包んで手渡してくれていたのだ。そしてこの我々の生命の中にあるこの偉大な力、仏性こそ、我々がそうとは知らずに持っていた宝の珠、法華経の宝珠のもう一つの意味だっのだ。

 

衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて

水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし

衆生近くを知らずして 遠く求むるはかなさよ

たとえば水の中にいて 渇を叫ぶがごとくなり

長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず

  白隠禅師坐禅和讃

「お経 禅宗」 桜井 秀雄、鎌田 茂雄

 

また、神が人に与えたというキリスト教の自由意志もこの偉大な力のことであったのだ。

 

求めよ、そうすれば、与えられるであろう、

捜せ、そうすれば、見いだすであろう。

門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

すべて求める者は得、捜す者は見出し、門をたたく者はあけてもらえるからである。

  聖書  マタイによる福音書 7

 

なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。

そうすれば、そのとおりになるであろう。

 聖書 マルコによる福音書 11章 

 

でも今は宇宙意識が用意した目覚めの時、悟りの時、自分自身を理解し他者の信仰も自分たちのものと同じであったのだと理解しなければならない時なのです。永遠の生命を得て輪廻転生から解脱する時なのです。キリスト教やイスラム教だけでなく仏教の多くの教典にも、不死の法門であると書かれているではないですか。プラス思考、積極思考を身につけ生の苦しみを乗り越え、永遠の生命を得て老化、病気、死を乗り越える時なのです、生老病死を超越する時なのです。

キリスト教、ユダヤ教、イスラム教的に言えば、死者が墓から出て裁かれるという最後の審判の時なのです。輪廻転生を繰り返して人間修行をしてきた魂が最後の審判を受けて永遠の生命に至る時なのです。ここが輪廻転生の終着点なのです。

 

また、地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。

そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りない恥辱をうける者もあるでしょう。

賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、

星のようになって永遠にいたるでしょう。

  聖書  ダニエル書 12

 

大きな数の七がすぎて

そのとき大殺戮があらわれる

それは千年期から それほどはなれていないときに

埋葬された人が墓からでてくるだろう

 諸世紀10−47

「ノストラダムス予言原典 諸世紀」 大乗和子

 

京都の太秦にある蚕の社に三柱鳥居という奇妙な鳥居があるそうです、しかもこの神社では一般の神社では、あまりに畏れ多くてほとんどお祭りしない日本の唯一神とも言える天之御中主神をお祭りしているそうです。

その三柱鳥居は三本の柱で鳥居が構成されていて、三つのどの方向から礼拝しても一つの地点を見つめることになります。世界の三大宗教は、いや、すべての宗教は、一つの真理を見つめていたのです。それは唯一の神すなわち我々の生命がその一部分であるこの宇宙を創造した無限の宇宙意識です。あなたの宗教の神や仏とは、これではないのですか。

 

 

このように、たえず自己の実修を行い、罪障を脱した実修者は、

ブラフマンとの合一という無上の幸福をたやすく享受する。

実修により自己を修練し、すべてを平等に見る者は、

一切万物のなかにある自己を見、また自己のなかに一切万物を見る。

  バカヴァッド・ギーター

 

わたしは一切万物の原初の種子であると知れ。

わたしは、理性ある者の理性であり、輝く者の光輝である。

           中略

惑わされて、この全世界は、これらよりもすぐれて不滅であるわたしを知らない。

なぜなら、神聖であり、成分から成るわたしの幻力はこえがたいから。

わたしにのみ帰依する者がこの幻力をこえる。

さまざまな欲望によってその知を奪われた者は、

それぞれの(宗教的)規則をまもり、(わたし以外の)他の神に帰依する。

いかなる信者がその信仰をもって、いかなる神の身体を崇めようと願っても、

わたしは、それぞれの信者がもつ信仰を不動のものとする。

かの信者はこの信仰をそなえ、その(神々のすがたをとるわたしの)身体を崇めようと願う。

しかも、わたしのみがかなえる願望を、彼はそれ(身体の崇拝)から獲得する。

  バカヴァッド・ギーター

「バラモン教経典 原始仏典」 責任編集 長尾雅人

 

こころは巧みな画工のようなもので、種々の五蘊をえがき、

あらゆる世界のうちに、ものとして造らぬということはない。

ほとけも亦こころと等しく、衆生もまたほとけとおなじい。

心と、仏と、衆生と、この三つのものは無差別である。

諸仏はことごとく、あらゆるものは心から起こると了承したまう。

もしよく斯のように解るならば、その人はまことの仏をおがみたてまつるだろう。

こころ、身に住せず、身もまたこころに住しないで、

しかもよく仏事をなすこと、自在であり、未曾有である。     

人もし三世一切のほとけを知ろうとおもうならば、まさに斯のように観ずるがよい。

−「こころ、もろもろの如来をつくる」と。

華厳経  夜摩天宮菩薩説偈品

 

この三界はただ心のみである。

  華厳経  十地品

 

三界は虚妄であって、ただ一心の所作である。

  華厳経  十地品

「ブッダの宇宙を語る 華厳経の世界 上」 竹村牧男

 

自分のものでありながら、その実体を知りがたいのは、我が心である。

自分の心は小さく見えるけれども、実は際限もなく広くまた大きいのである。

 

人がもし真理を知ろうとするならば、常に自心の奥底を見よ。

そこに真理は豊かな光を放っている。

 

心はそのまま現象世界である。現象は心を離れて有るものではない。

心の外に現象世界が有ると思うのは、とらわれである。

 

人はそのからだの中に、本来清らかな仏たるべき性質を備えている。

仏への道は遠くない。唯、心の持ち方、考え方を変えればよいのである。

あらゆる存在は心の認識より始まる。心を離れて万有は存在しない。

  空海

「弘法大師聖語撰抄」  中川善教

 

その心の秘密が、あばかれ、その結果、ひれ伏して神を拝み、

「まことに、神があなたがたのうちにいます」と告白するに至るであろう。

  聖書  コリント人への第一の手紙 14章

 

いちばん重要な、最初の平和は、人の魂のなかに生まれる。 

人間が宇宙やそのすべての力とのあいだに、つながりや一体感を見いだせたとき、

その平和が生まれるのだ。宇宙の中心にはワカンタンカが住まい、

しかもこの中心はいたるところにあって、それはわしらひとりひとりの内部にもある、

と理解したときにな。これこそが真実の平和なのだ。

  アメリカインディアン ブラック・エルク

「それでもあなたの道を行け」 ジョセフ・ブルチャック編   中沢新一、石川雄午訳 

 

人は神なり、神は人なり。

  ホッマツタエ

「神代の風儀」 鳥居礼 著

 

天地に在りては神と云ひ 万物に在りては霊と云ひ 

人に在りては心と云ふ 心とは神なり 

故に神は天地の根元 万物の霊性 人倫の運命なり当に知る 

心は即ち神明の舎 形は天地と同根たる事を

  祝詞  神道大意詞

 

天照皇太神の宣はく 人は則ち天下の神物なり 須らく静謐を掌るべし 

心は神明の本主たり 心神を傷ましむること莫れ

        中略

天地の神と同根なるが故に万物の霊と同体なり 万物の霊と同体なるが故に 

為す所の願いとして成就せずといふことなし

  祝詞  六根清浄大祓

「神拝詞集」  

 

心は則ち理なり。天下また心外の事、心外の理あらんや。

 

人は天地の心にして、天地万物は本吾が一体のものなり。

  王陽明

「陽明学 回天の思想」  守屋

 

        儒教(儒学)とは礼節を重んじどこまでも人格を向上させることで天に近づくことを

          選んだ哲学である。

          朱子(朱喜)は、この宇宙の万物は一体であり「気」というエネルギーで構成されてお

          り、この宇宙を動かす原理、法則である「理」が存在することに気づいた(理気二元論)

          それだけではなく我々の生命にその宇宙の原理「理」が宿っていることにも気づいた

          のである(性即理)。さらに王陽明は、「理」とは「気」の性質であること(理気一元論)

          我々の生命に宿っているのは理気だけではなく、宇宙の心である「良知(良心)」もま

          た宿っていること、そして心が生命である宇宙の原理である理気を動かしさらに宇

          宙をも動かすパワーがあること(心即理)を悟り、志を持った行いの大切さを主張し

          た。ここに儒教はさらなる進化を遂げた。

                

神は人間である。そして彼は存在する神である。

彼自身によって存在するのではなく、彼自身の中に存在している。

自分自身の中に存在している彼は神であり、この神からすべてのものは存在している。

 

神が人間でなかったとすれば宇宙は創造されなかっただろう。

 

ただ、「一者」、「真に我であるもの」だけが偏在、全知、万能である。

これは永遠の主つまりエホバである。

 スウェーデンボルグ

「霊感者スウェデンボルグ」 ウィルソン・デュセン著、今村光一訳

 

知れ、おートートよ、原始には虚空にして無、無時間、無空間なりき。

しかして無の中に目的を有し、すべてに遍満せる一想念来りて空を満しぬ。

そこには物質は存在せず、力、動き、渦、つまり虚空に満てる有目的想念のみ存せり。

 

一者存す。まさに第一者なり。始めなき者、終りなき者なり。すべてをつくりたる者、

すべてを治むる者なり。善なる者、正義なる者なり。輝かす者、保持する者なり

 

あらゆる空間には一なる智恵のみ存す。分かれし如く見ゆるそは一者における一なり。

存するすべてのものは光よりいで来れり。

 

光は生命なり、されば偉大なる光なければ何ものも存し得ざるなり。

形成されしあらゆるものの内に光の中心が常に存することを知れ。

 

汝の想念を内に向けよ、外に向ける勿れ。汝、内なる光の魂を見いだすべし。

 

更に汝は人間は光より来り、光は人間より来れるを理解すべきなり。

 

汝の内なる諸界への鍵は汝の内にのみ見いださるるなり。

なんとなれば人は神秘への入口にして一者の内なる一者たる鍵なる故なり。

 

しかり、未だ生まれざる未来において、あらゆるものが一となり一がすべてとならん。

 エメラルドタブレット

「エメラルド タブレット」 アトランティス人トート 著、M・ドリール博士 編、林鐵造 訳

 

 

こは真実にして偽りなく、確実にしてきわめて真正なり。

唯一なるものの奇蹟は成就にあたりては、

下なるものは上なるもののごとく、上なるものは下なるもののごとし。

万物が「一者」より来たり存するがごとく、万物はこの唯一なるものより適応によりて生ぜしなり。

  エメラルドタブレット

「錬金術」 ユタン・セルジュ 著 、有田忠郎 訳 

 

天地ハ大ナリト雖モ、其ノ化ハ均シ。

万物ハ多ナリト雖モ、其ノ治(秩序)ハ一ナリ。

 

天地ハ我ト並ビ生ジ。

万物ハ我ト一ヲ為ス。

  荘子

「人と思想  荘子」 鈴木修次 著

 

そして、多くの神、多くの主があるようではあるが、

わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。

万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。

  聖書  コリント人への第一の手紙  8

 

同一の主が万民の主であって、

彼を呼び求めるすべての人に豊かに恵んで下さるからである。

なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」

とあるからである。

  聖書  ローマ人への手紙  10

 

勿論、アッラーさえその気になり給えば、

汝らをただ一つの統一体にすることもおできになったはず。

だが、汝らに(別々の啓示を)授けてそれで試みて見ようとの御心じゃ。

  コーラン  食卓

 

いろいろな宗団が現に守っている祭祀はみなそれぞれに我らが設てやったもの

  コーラン  巡礼

 

我ら(アッラー)が彼らを全部一緒に召喚するその日(最後の審判の日を指す)

(アッラーのほかに)沢山の邪神どもを崇拝したあの者どもに

「これ、汝らが盛んに言い張っていたあの汝らの仲間たち(邪神たちのこと)はどこへ行った」

と訊いてやろうぞ。

この時こそ、さすがの彼らも、

「我らが主、アッラーに誓って申し上げます。

私たちは決してほかの神々なんか信仰しておりませんでした」

とでも言うよりほか言い訳のしようはあるまい。

コーラン 家畜

 

やがて我らの遣わす者(死をつかさどる天使)が訪れて、彼らを召す時、

「汝ら、アッラーをさしおいて(ほかのものに)一生懸命祈っておったが、

そのものどもはどこにいるのか」と訊ねると、

「わしらをおきざりにして、みんなどこかへ行ってしまいました」と言う。

すなわち、自分たちが無信仰者であったことを自分から証言せねばならなくなる。

コーラン  胸壁

 

空想で造り上げていたもの(邪神たち)が急に姿を消してしまった今となっては。

  コーラン  胸壁

 

また彼ら、自分たちの中から警告者が出たというので吃驚し、

全然信仰心のない者どもに至っては、

「これはたしかに大山師の妖術つかいにちがいない。

何ということか、これほど沢山の神々をたった一つの神に纏めてしまうとは。

いや、まったく恐れいる」などと言う。

そこで彼らの長老たちまで出馬して来て、

「さあさあ、みんな、どこまでも自分の神々を守り通すんだぞ。

これはたしかに企みじゃ。このようなこと今までの宗教では絶えて聞いたこともない。

だいいち、我らの間で人もあろうに、あの男にお諭が下るとは」と触れて歩く。

実は、彼らはじめからわしのお諭を疑ってかかっておる。

なんと言うても未だわしの罰を味わったことがないから。

  コーラン  サード

 

かつてアッラーは予言者たちと契約を結ばれたことがあった。

「わしは汝らに聖典と聖智を授けてやる。だがその後で汝らのもとに一人の使徒が現れて、

汝らのもっている(聖典と聖智)を確証する場合、汝らは間違いなく彼を信じ、かつ彼を援助する。」

  コーラン  イムーラン一家

 

今は彼らも(聖典)の解き明かしを待つほかなかろう。

だが解き明かしが来るその日(この世の終末の日)、以前それを忘れていた人々も、

「なるほど、神様のお使いの方々が言ったことはみな本当だった。中略」

などと言うことだろう。

  コーラン  胸壁

 

あまりに大きな知らせ(復活と最後の審判の告知)ゆえ、

それで意見が食い違う(やれ本当だ、やれ嘘だと論争している)。

いや、いや、いずれすっかり(事の真相が)わかるであろう。

いや、いや、いずれすっかりわかるであろう。

  コーラン  知らせ

 

あるいは深智と名づける光明をはなつ。

この光はあらゆるもろ人を呼びさまし、一つの法門において、

一念のうちに、量りなきもろもろの法門を残りなく解らしめる。

華厳経  賢首菩薩品

「ブッダの宇宙を語る 華厳経の世界 上」 竹村牧男

 

尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。

それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、

神の性質にあずかる者となるためである。

  聖書  ペテロの第二の手紙  1章

 

神の言葉が与えるだろう、

天と地、秘儀における神秘の黄金を含む実質に、

肉体と魂と霊は、すべて力あふれる。

天の座にあるときのように、万物は彼の足元に

 諸世紀3−2               

「ノストラダムス世界大終末」 モーリス・A・ラカス著  南山宏 訳

 

すべての宗教は一つの真理を見つめていたのです。宗教の違いは真理を見る角度の違いにすぎなかったのです。真理という象を暗闇の中でつかんで、象の異なった体の部分をつかんだ者がそれぞれに象とはこんなものだと言い張っていたのだと、シャカはこの事実を表現しています。また聖書でも、バベルの塔が崩壊した後、神は言葉を乱したと表現しています。

すべての宗教はしょせん信仰の型の違いでしかなく、直接的にまた間接的に人間の中にある唯一の神、偉大な力を崇める型になっているはずです。型の違いではなく心のあり方にこだわるのが本当の信仰ではないでしょうか。信仰の型、形式、儀式、祭式にこだわることは信仰ではなく魔術です。

実は出エジプト記とは不要人類抹殺計画だけの譬えではないのです、奴隷にされていた神の民を解放するUFOによる空中携挙の譬えでもあるのです。その出エジプト記の中でイスラエルの聖者モーセとその兄アロンと戦ったエジプトの魔術師とは、信仰の型、形式、儀式、祭式それだけではなく組識、権威、権力、名誉欲、金銭欲にこだわり唯一の神を認めない現代の宗教指導者のことなのです。

さらに言わせてもらえば、本当のイエスを受け入れず、唯一の神を認めず、不思議な魔術を行い、最大の反キリストである悪魔に自分の信者と地球を売り払う盲目の宗教指導者こそ、反キリスト(不法の者、滅びの子)そのものではないですか。

 

子供たちよ。今は終りの時である。あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように、

今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であると知る。

彼らはわたしから出ていった。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。

  聖書  ヨハネの第一の手紙  2

 

貪欲な説法者は 己が野心におぼれ

むやみに欲しがる他に 何もすることがない

その者と信者たちは 共に墓穴を掘り

万事あべこべに見て 迷宮の森を押し進む

  諸世紀 693

「ノストラダムス最後の警告」 飛鳥昭雄 著

 

宗派に従う者は 密告者に大きな痛手を与え

獣は舞台に情景を用意し

不正な事実の発見者は有名になるだろう

そして宗派で世界は混乱し分裂するだろう

  諸世紀1−45

「ノストラダムス予言原典 諸世紀」 大乗和子

 

拝みたいならどんな御神体、本尊、神を拝んでもよいのです、つまらない選民思想を捨ててそれが積極思考をするための型の一つであることをわきまえさえすれば。あなたがたは、直接的にまた間接的にあなたがたの神や仏を通して自己の中の唯一の神を崇拝すればいいのです、、、、やりたければ。

個人の信仰の型としての宗教は残ってもよいのでしょう、どんな積極思考であろうとも型や方法はあるのだし、どれも天から下った聖者が授けてくれた尊いものであり、どの神や仏も結局は唯一の神につけられた別の名にすぎないのだから。

ちなみに火堂のヘビの崇拝を捨てシャカの偉大なる弟子となった神通第一といわれるマハー・カーシャパ(摩訶迦葉)もあなたがたのことなのです。しかし集団のエゴを広め憎しみの元凶となる布教活動や宗教団体は、新世界にはもう必要ないのです、人間として必要なことは、清い心を持ち精いっぱい努力するだけで充分なのだから。

でも、あなたがたには特別な使命があります。あなたがたは普通の人より多くを学んできたはずです。あなたがたが信仰する神や仏の教典に何が書かれているかをもう一度よく見てください。

 

この世なくしてあの世はないのだ。この世を逃げてあの世はないのだ。

この世で幸せになれ。生きながら仏となるのだ。

この天地宇宙が生きている力と、この体に生きる力とは同じなのだ。

さあ・・・手を合わせ。風が吹くように。光がさすように。心に光を放て!

  空海

 

そして悔い改めて、宗教のエゴ、形式、儀式、組織ではなく、「我々の生命はこの宇宙を創造した一なる大生命の一部であり我々の生命の中にその力は活きている、ゆえに小さな苦しみに負けない強い心を持ち精一杯の努力をして、本来ひとつである自他の生命を尊重し、みんなが幸せになれる世界を築きなさい」というあなたがたが学んできたすべての宗教が持つ根元的思想を手に手を取り合って広め、この地上から一切の宗教的争いを消し去り、これだけのことをしてくれた光の友をこの地球に導く運動の中心にならなければなりません、あなたがたは神や仏の直弟子なのですから。

 

何か(新しい)啓示のお言葉が下るたびに、彼らの中には

「こんなもので信仰が増したのはどこの誰だ」などと言い出す者がある。

実は本当の信仰をもった人たちはみなこれで信仰が増し、大喜びになるのに。

だが心の中に病気をもった者ども、穢れの上にますます穢れが加わって、

とうとう無信仰のままで死んでしまう。

自分たちが(このようにして)年に一度か二度試みられていることが一体彼らにはわからないのか。

それで結局、改悛することもなく、はっと目醒めることもない。

  コーラン  改悛

 

今のうちに正法をそしった罪を悔い改められるならば、

阿闍世王が白癩の病を治して四十年も命をのべ、

無根の信と申す位にのぼって、現身に無生法忍を得たごときものである。

日蓮御書  同体同心事

 

すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、こらしめたりする。

だから、熱心になって悔い改めなさい。

見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。

だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、

わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。

  聖書  ヨハネの黙示録  3

 

悔い改めてあなたがたが救世主にならなければならないのです。救世主とはイエスの証人のことです。いや、イエスだけでなく我々に言葉を伝えるために天から下ったもろもろの聖者の証人です。あなたがた自身がこの世を救う救世主に、あなたがたの神や仏の証人にならなければならないのです。

救世主(メシア、キリスト、マフディー)、弥勒菩薩(マイトレーヤ、ミスラ、ミトラ、摩多羅神、牛頭大王)、上行菩薩(地涌之大士、聖人)、カルキ、パハナ、、、、、、これもまたその呼び方はどうでもよいのだが、本来、救世主という称号は、神や仏の弟子であるあなたがたが一つになって持つべきものなのだから。以前に浅利氏が救世主だとお話ししましたが、その称号もあなたがたから一時お借りしたにすぎないのです。

 

わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、

すなわち父のみもとから来る真理の御霊が下る時、

それはわたしについてあかしをするであろう。

あなたも、初めからわたしと一緒にいたのであるから、あかしをするのである。

  聖書  ヨハネによる福音書  15

 

これ、汝ら、信徒の者、正々堂々とアッラーの前に立ち、正義の証人たれ。

  コーラン  食卓

 

分かりますよね、、、一番正しい宗教、宗派、教団などあってはならないのです、少なくとも他の宗教、宗派、教団も自分達とまったく同じ価値があったのだと心の底から認めないかぎり本当の意味での宗教の相互理解も世界平和もないのだから。世界平和、宗教の相互理解を主張するあなたがたが、もはや自分の宗教、宗派、教団が一番正しいとはおっしゃりはしないでしょう。負け組みを造って、自分達の宗教、宗派、教団だけが大勝利をしても、それが本当の勝利と言えるのでしょうか。負け組みを造らず全人類が勝利することこそ本当の大勝利ではないのでしょうか。

どれか一つの宗教、宗派、教団が正しかったのではなく、みんな方便だったがみんな正しかったでいいじゃないですか、みんな尊い集団だったでいいじゃないですか。中東では、同じ神(ヤハウェ=エホバ=アッラー)を崇める者が、宗教、宗派の違いで今も神の名のもとに殺し合いをしているのてす。

こだわらない心、広い心、これが空なり般若心経。みんながこだわり、エゴ、権力、我欲を捨てて少しずつ道を譲り合って宗教の本質は一つなんだと認め、手を取り合って世界を一つにして、これだけの作業をしてくれた隣人である我々の子孫を仲間として受け入れなければならない時が来たのです。

 

また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福をえるであろう。

あなたがわたしの言葉に従ったからである。

  聖書  創世記  22

 

あなたがたは神様や仏様の大切なお弟子であり、どれもみな尊い集団なのです。あなたがたを軽んじるわけにはいきません。私は仔牛の男。いや、牛の糞程度の人間です。

だからギリギリの所で最も大切なことは何かを学ばされ、こんなことをしなければならなくなってしまったのです、どんな恥をかこうとも自分の人生の責任を取らなければならなくなってしまったのです。神様や仏様の大切なお弟子である立派なあなたがたならきっと分かって下さると信じてペンを取りました。いや、私自身の妻や親や兄弟でもあり恩人でもあるあなたがた宗教者と分かり合えることを信じて、そして自分自身の心を病にしないためにペンを取りました。

 

 

追伸  イスラム教徒、ユダヤ教徒のみなさんへ

 

イスラム教徒のみなさん、今、あなたがたの一部の同胞が大切な命を投げ出して自爆テロをしていることに心をいためていると思います。誰が自分の大切な命を投げ出したいでしょうか。誰が自分の肉親や同胞が死ぬのを悲しまずに見ていられるでしょうか。いや、心を痛めているのは、あなたがたイスラム教徒だけではなく、同じ人類の同胞として世界の多くの人々が心を痛めているのです。

でも、力を持たないあなたがたとしてはそんな悲しい行為で自分たちの主張を世界に訴えるしかなかったのですよね。でも、もう一切のテロは許されないのです、アッラーが許さないのです。

ユダヤ教徒の神は誰ですか、キリスト教徒の神は誰ですか、、、あなたがたと同じアッラーではないですか。彼らもまたあなたがたと型の違う唯一絶対神を崇拝するイスラム教徒なのです。このことはあなたがたの聖典・「コーラン」にも明記されているはずです。

 

(ユダヤ教徒やキリスト教徒に)言ってやるがよい、

お前たち、アッラーのことで我々と言い争いをしようというのか。

アッラーは我々の神様でもあれば、お前たちの神様でもあるものを。

  コーラン  牡牛

 

確かにパレスチナのイスラム教徒は、土地を奪われ、親を殺され、兄弟を殺され、子供を殺され、本当に悲惨な思いをしてきたのだと思います。しかし、それはあなたがただけでなく、イスラエルのユダヤ教徒も同じなのです。イスラエルのユダヤ教徒のみなさんは思い出してください、国を奪われ世界を放浪して、迫害された日々のことを、数えきれない同胞が虐殺された日々のことを、、、。今のパレスチナのイスラム教徒はかつてのあなたがた自身の姿なのです。パレスチナのイスラム教徒もイスラエルのユダヤ教徒も、平和にどっぷり漬っていた我々日本人にはとても想像もできないほど悲惨な思いをしてきたのだと思います。その日本人である私ごときがあなたがたの宗教のあり方を批判するなどという大それたことをしたことをどうかお許し下さい。しかし、我々日本人はあなたがたと全くの他人ではない可能性もあるのです。と言うのも、古代日本文化の形成において、中東からやって来た人々が大きく関わっている可能性があるのです。

もう、こんな悲惨な争いはやめにしませんか。人種、民族、宗教、宗派、国家、、属している組織に関係なく、人類はその本質である聖なる霊において一つなのです。人類が共通に持っている本心、良心において、その真心において一つなのです。その他を思いやる真心こそがあなたがたの神、ヤハウェでありアッラーなのです。

すべては枠組みをつくり他を差別することに問題があるのです。ここにすべてを解決する方法があります。この世界を創造した唯一の神を認め、人種、民族、宗教、宗派、国家、組織の垣根を取り払い、愛と思いやりで世界をひとつにして、我々人類の子孫である天使を客人、いや同胞として受け入れることです。

もはや猶予はありません、1999年から最後の審判が始まっているのです。

 

 

 

教会や各宗派は幻想にかられ

破壊にむかうだろう

生きることよりも いっそう大きい傷を石にするだろう

人々はなめらかな舌で 耳をとりもどすだろう

  諸世紀1−96

「ノストラダムス予言原典 諸世紀」 大乗和子

 

大いなる一族のところに やってくるとき

彼がたましいのすべてをもどすまえに

いまや明白となった事実を見るだろう

鷲とライオンと十字形の王冠とで

  諸世紀6−71

「ノストラダムス予言原典 諸世紀」 大乗和子

 

新しい法が新しい土地を支配するだろう

シリア ユダヤ パレスチナのあたり

野蛮な大帝国が崩壊するだろう

太陽の世紀が完了するまえに

  諸世紀3−97

「ノストラダムス全予言」Eチ−タム著  流智明 監修 

 

どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、

ただひとりの証人によって定めてはならない。

ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、

そのことを定めなければならない。

  聖書  申命記 19章

 

いよいよ臨終で遺言したいと思う時には、

同族の公正な男を二人だけ証人にたてるようにせよ。

  コーラン  食卓

 

あなたがたの律法にふたりによる証言は真実だと、書いてある。

  ヨハネによる福音書  8章

 

主のすべての道はその契約とあかしとを守る者にはいつくしみであり、まことである。

聖書  詩編  25章

 

またアッラーとの契約は必ず果たすよう。

  コーラン  家畜

 

そのことがまだ起こらない今のうちに、あなたがたに言っておく。

いよいよ事が起こったとき、わたしがそれであることを、あなたがたが信じるためである。

よくよくあなたがたに言っておく。

わたしがつかわす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。

わたしを受け入れる者は、わたしをつかわされたかたを、受け入れるのである。

  聖書  ヨハネによる福音書  13章

 

なお、この証、福音は、世界に伝えられなければなりません。ここに私、アサリ二世は、すべての著作権を放棄し、いかなる者も本書を自由に出版、公表できるものとする。

未来研究家・第四の証人

       アサリ二世


  未来からの最終警告 「付録 神道系新興宗教もまた天子たちの作品であった」

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