縁の花

     (21世紀に咲く智閥の花)  

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           武田勝頼の復活

  第一章 「武田家の苦悩」

 前からお約束していた武田家のシミュレーション小説書き始めます。ちょうど、六月二日に、本能寺の変、起きているので、時期的にもいいと思います。
大いなる武田家の供養もかねて書きたいと思います。
長くなりますが、お読み頂けたら幸せです。

            「武田勝頼の苦悩」
 時は、天正九年五月二十五日、戦国時代、最強といわれていた武田家は、大きな存亡の危機の中にいました。
 10年前、武田勝頼父である、武田信玄が、三河、遠江の藩主、徳川家康と、織田信長の連合軍を三方ヶ原の戦いで破った後、病でなって、急死して以来、大きな大黒柱をなくし、武田家は、急落の勢いを止めることが出来なくなっていたからです。

 しかも後を継いだ勝頼は、10年後、息子の信勝に跡を継がせるまでの陣代として、正式な跡継ぎには使命されず、その精神的な苦悩は大きかったです。甲斐武田家の家臣、一族の中には、側室だった、諏訪御料人の娘の子供である勝頼を、内心、諏訪の出と蔑んで、甲斐の武田家の藩主と認めないものも多くいて、勝頼は焦りの中にいました。

 その中で、時が過ぎれば、どんどん強大になる織田信長、徳川家康の力に焦って、起したのが長篠の戦で、武田家は、一万人もの兵と、信玄公が育てた優秀な家臣を多くなくしてしまいました。勝頼の信頼は、一気になくなったのです。

 しかしそれ以降も、勝頼は、必死で武田家の再建を図っていました。外交的には、北条家から、10歳以上も若い北条氏康の六女、北条夫人を貰って、北条家との同盟を強化したり、内政面では、思い切って、武田家の古い体制を改革したりして、新しい武田家を造り上げようとしました。勝頼は、戦好きだけではなく、目沙汰なくても、内政でも手腕を発揮していたのです。

 また、そんな勝頼にも、天正六年には大きなチャンスがやってきていました。越後の龍、上杉謙信が、3月、いよいよ上洛にむけて、北陸から軍を動かすのに乗じて、勝頼も、東美濃から、一気に侵攻することさえ考えていたのです。

 でもそれも、謙信が、遠征の準備中に、春日山城で病死し、勝頼は、跡を継ぐ、景勝と景虎との跡目争いに巻き込まれ、最初は、上杉家の養子になった北条氏の息子、景虎を応援していましたが、本来なら、真っ先に来ないといけない北条家の軍が、来ないことに、失望して、景勝に乗り換えるという選択を選ばないといけないはめになってしまいます。

 そのことで、勝利した景勝との間で、上杉家との同盟ができたものも、それを待っていたのか、

景虎を見捨てたということで、大国、北条家とも争うことになって、織田、徳川、北条から挟まれるという、苦しい立場においやられます。徳川、織田と北条は、密かに同盟を結んでいて、武田家は、挟まれて苦戦する事になるのです。

 しかも、そんな徳川家、北条家の連合の為に、勝頼は、遠江にある高天神城を、徳川家に落とされ、再び、武田家臣団の信頼をなくしてしまいます。勝頼は、高天神城を諦め、徳川に降伏することを認めていたのですが、信長の謀略で、高天神城の降伏は認められず、城に篭っていた九百名は、城から打って出て全滅してしまいます。

 この全滅した高天神城に、甲斐の兵がいなかったこともあって、武田家は、外様を見殺しにするということで、家臣団の信頼が一気になくなってしまったのです。 織田信長の謀略は、見事に成功するのです。信玄公が言っていた、「人は城、人は石垣・・・」という言葉が、崩壊してしまったのです。

 だから、武田家は、もう風前の灯でした。その事は、藩主である勝頼が一番分かっていました。でも、それでも勝頼は、天正六年、六月まで、武田家を存続させていました。一つの奇跡がおき、歴史が変わっていたからです。

 

「仁科盛信の助言」

 その奇跡を起してくれた人物は、仁科盛信、信玄の五男でした。仁科盛信は、側室である油川氏の息子なので、勝頼とは腹違いですが、二人の仲は、非常に良かったです。家臣だけでなく、武田家の一族、木曽氏や穴山氏にさえ、内心、侮られていた勝頼にとって、兄思いの仁科盛信は、もっとも頼りになる存在だったのです。

 だから、勝頼は、自分の拠点でもある諏訪の高遠城を任せています。高遠城は、武田家の四大名城の一つといわれ、対織田軍との戦いでは、重要な拠点になるところでした。もし、高遠城を落とされたら、もう甲斐に侵攻する織田軍を防ぐ城はありませんでした。やっと、今年に造った、新しい新府城は、まだまだ未完成です。高遠城で食い止められなかったら、武田家は滅亡してしまうことになるのです。

 また、仁科盛信は、武将としても、信玄公の血を一番、継いでいるのではないかと思うぐらい、優れていました。領民に対しても、慈愛に満ちていて、信頼されていましたし、家臣にも慕われていました。その上、まだ若いので、戦場で大きな実績はありませんでしたが、勇者でした。勝頼は、次の戦では、仁科盛信に重く用いるつもりでした。仁科盛信なら、強大な敵にも、おめおめと破れることはないと信頼していたのです。

 でも、そんな仁科盛信は、自分自身も、勝頼も気が付かない内に、武田家を救っていました。それは、妹、松姫も関わっている、信長の五男、ご御坊丸を、織田家に返還する話があった時でした。去年の冬、織田信長から、岩村城攻めの時、降伏して、甲斐に人質になったご御坊丸と、武田家で人質になっている人物との、むしのいい人質交換の話があった時、勝頼は、激怒してご御坊丸を自害させようとしましたが、織田軍の勢い、仕返しを恐れた家臣に反対され、結局は、割の合わない交換だと分かっていても、応じようとしたのです。

 だけど、その弱気が、武田家の滅亡を早めるところでした。ご御坊丸をあっさり帰したことで、信長は、武田家が思ったよりも、弱くなっていることを感じ、大敵である毛利侵攻の前に、武田家を滅ぼすことを考えたからです。短期間で、武田家を滅ぼすことができないかぎり、毛利と武田という二大敵国との二正面で戦うことになるので、武田家は、毛利の後と考えていましたが、それを変更したのです。

 でも、それを仁科盛信が食い止めました。仁科盛信は、その事を知って、猛然と反対したのです。何故、そこまで反対したのか、仁科盛信自身分かりませんでしたが、どうしてもそれは駄目だという天の啓示というか、信玄公や、武田家臣団の御霊達の訴えを感じたのです。

 それで仁科盛信は、勝頼のところまで行くと、長篠の戦で敗れた後、岩村城を包囲されて、寛大な条件で、降伏したはずなのに、騙されて、京都で磔にされた、武田家の重臣、秋山信友の名前を出して反対しました。ここで、ご御坊丸を無駄、無駄帰したら、秋山信友などの御霊が浮かばれないといったのです。

 それで勝頼は、思い止まりました。自分の事を真剣に思ってくれる仁科盛信の勢いに押されたのです。何か、信玄公が、弱気の自分を叱っている気がしたのです。ですから、勝頼は、ご御坊丸を織田家に帰しませんでした。ご御坊丸を取り戻したかったら、腕ずくで、取り返しに来いという、堂々とした返答をしたのです。

でもその勝頼の返答は、武田家を救いました。信長は、その勝頼の返答に、まだまだ、武田家の強さを感じました。信長は、内心、武田家をまだまだ恐れていたのです。だから従来通り、武田家は、毛利を滅ぼした後だと決心しました。仁科盛信の心意気が、結果的に武田家を救うことになったのです。

 

 

     「武田勝頼と仁科盛信」

 天正九年五月二十五日、勝頼と仁科盛信は、高遠城にいました。二人は、昔から仲が良く、甲府の御岳金桜神社などに、一緒に奉納したりしていましたが、五月二十三日には、諏訪神社に行っていました。二人で、長年住んでいた、躑躅ヶ崎館から、新しい新府城に移る武田家の繁栄を祈願していたのです。

 でも、二人の心は、重かったです。このままでは、武田家が滅亡することは、二人とも良く分かっていたのです。だけど、二人の結束は高く、武田家を何とかしようという気持ちは非常に大きかったです。二人には、武田家を滅ぼした後、織田信長が、何をしようとしているか、良く分かっていました。信玄公をおそれ、武田家を憎んでいた信長の性格から言っても、武田家の一族や、多くの家臣は、虐殺されると正しく理解していたのです。 勝頼には、浅井家や朝倉家への仕打ちの情報が、正しく入っていたのです。

 しかし、そうは言っても、二人には打つ手はありませんでした。本来なら、毛利侵攻を企てている織田軍に対して、美濃や三河に兵を出して、けん制するなり、攻撃したりしたいところですが、信長の準備は万全でした。

 美濃には、1万の兵力がいて、岐阜に五千、岩村城に二千、明智城に一千、大垣城に二千と、守備を固めていますし、尾張の清洲城にも三千、小牧城に二千と、守りを固めています。しかも、三河、遠江の徳川家も、一万二千の兵は動かせます。武田家が、例え、二万の兵で、攻め込んでも、どうすることもできなかったのです。

 その上に武田軍が、そうしたら背後の北条家が、甲斐、信濃に兵を出す密約もあります。武田家が滅亡した後、次は北条家が滅亡させられることは、明白ですが、北条家の当主北条氏正は、織田家の力を恐れて同盟したのです。こうなっては、勝頼にも打てる手はありませんでした。武田家との同盟国の上杉家も、柴田勝家率いる織田軍に、侵攻されて、苦戦しており、武田家と上杉家のどちらが先に滅びるかが問題になっていたのです。

 だけど、勝頼よりも、弟の仁科盛信は、最後まで諦めるつもりはありませんでした。名門、武田家と最後まで共にする覚悟でした。今回、諏訪神社に、勝頼と二人で、参ることを提案したのも仁科盛信でした。その後、少し疲れている勝頼を、昔、城主として暮らしていた高遠城に招いて、今、励ましていたのです。

 また、そんな二人の前には、まだ小さい、仁科盛信の娘、4歳になる貞姫がいました。仁科盛信は、貞姫を、足元においてかわいがっていたのです。

 

「武田勝頼と仁科盛信の会話 小督姫と松」

 やがて、武田勝頼は、父親の足元で遊んでいる督姫を見ながら、仁科盛信に「小督は何歳になったか」と尋ねました。勝頼にも、良く似た年の貞姫がいます。その事を思い出したのです。
 
 そんな勝頼に対して、仁科盛信は、愛称で呼んでいる小督に、何歳になったかと尋ねて、4歳と答えさせました。男子の子供は、3人持っていますが、仁科盛信にとって、女の子供は、督姫が初めてでした。そのだけに、非常にかわいかったのです。しかも、督姫は、少し病弱でした。仁科盛信は、督姫を心から愛していたのです。

 でも、それだけに、もし、織田軍が、美濃から大軍で、信濃に入って、高遠城に攻めて来た時のことを考えたら、督姫の将来が心配でした。まだ幼い小督は、どうなるのだろうと思っていたのです。

 また、勝頼も気持ちは同じでした。勝頼にも、貞姫がいます。自分には、何かあってもいいですが、まだ幼い督姫、貞姫は、何としても生きて欲しいと思っていたのです。
 
 それで勝頼は、ついふっと、もし、織田軍が、大軍と高遠城に迫ったら、小督は、どうするつもりかと尋ねてしまいました。そんな弱気な心が出たのです。それに対して、仁科盛信は、しばらく考え、自分の妹、高遠城で暮らしている松姫に、小督は預けて、兄上のいる新府城に逃がすと答えました。幼い小督は、自分と同じように、高遠城で、死なせるつもりはなかったのです。

 でも、勝頼は、そうなった場合は、新府城で、妹の松姫や、小督を預かっても、無事に守れる自信はありませんでした。もし、織田軍が、高遠城まで迫ったら、武田家は滅びるということは分かっていました。今の武田家臣団では、新府城で最後まで、自分と戦ってくれる家臣が何人いるか、心もとなかったのです。

 

 しかし、勝頼は、その事は、仁科盛信にいえませんでした。もし、松姫が、督姫を連れて、逃げてきたら、自分も、娘の貞姫や、奥の北条夫人を、松姫に預けて、北条夫人の実家、北条家に逃がすかということを考えていました。

 北条夫人も一緒だったら、北条家も、松姫達を守ってくれるし、織田信長の嫡男、信忠と、松姫は、昔、婚約していたという過去もあります。松姫は、今でも、信忠を思っているので、もしかしたら、督姫や、貞姫の生命は、信長から守ってくれる可能性もあると考えていたのです。

 いえ、賢く、綺麗で、心優しく、しっかりしている松なら、どんな苦難でも負けずに、まだ幼い、督姫や貞姫を育ててくれる、松姫に托そうと決心したのです。

 

仁科盛信の策一

 しかし、そんな勝頼の気持ちは、仁科盛信には分かっていました。仁科盛信は、勝頼が、猪武者ではなく、知将だということで評価していました。それだけにいろいろ考えてしまう面もあります。武田家を背負うという重圧がそうさせるのです。
 
 やがて、仁科盛信は酒を飲みながら、小督をそんな目にあわせない為にも、何とか、織田家の侵攻は防がないといけませといいました。勝頼を励ます為に言ったのです。しかし勝頼は、それに頷きながらも、その策がないという本音を出しました。

 上杉謙信亡き後、畿内で抵抗していた本願寺も、抵抗を諦め、織田信長と和睦すると、紀州に落ちました。残るは、毛利氏と上杉家ですが、どちらも苦戦しています。武田家は、それを助ける力はありません。どうすることもできなかったのです。

 でも仁科盛信は、そんな弱気に負けませんでした。そんな勝頼に、前から考えていたことを言いました。
「確かに、これといった策はありません。しかし、天佑を信じて、どんなことにも備えることはできます。父、信玄公や、上杉謙信に起こったことが、信長に起こらないとは限らないでしょう」

「盛信は、信長が、急死するというのか」勝頼は、そんな盛信の言葉に、信じられないという顔で言いました。 信長の恐れから、そんな事を考えたこともなかったのです。

「信長も、もう五十歳を超えています。そうなっても不思議ではありません。それに、桶狭間の戦いの例もあります。信長が、毛利に敗れることも考えられます」
「また、信長は、驕りが出ているのか、昨年、長年仕えた家臣を、無能だからと言って、追放しています。家臣の中に、次は自分だという不安を持っていて、信長に反逆する家臣があるかもしれません」

 盛信は、そんな前から考えていた希望も言いました。どれも確信のあることではありませんが、可能性はあることでした。特に、盛信は、武田家が滅亡した後でも、信長が、今のやり方をしていたら、いつか家臣から裏切られると確信していたのです。

 しかし、どの仁科盛信の言葉も、勝頼を動かせませんでした。勝頼には、そんな奇跡が起きるとは信じられなかったのです。でも、酒の肴に、その会話に付き合ってもいいと思いました。勝頼自身も、そうなることを望んでいたのです。


仁科盛信の策二

 だから、勝頼は、仁科盛信に、もし、信長が、信玄公や上杉謙信のように、急死したらどうするつもりかと尋ねました。仁科盛信なら、どうするだろうと関心があったのです。

 仁科盛信は、そんな少し元気になった兄、勝頼にほっとすると、前から考えていたこと「もし、織田信長が、死んだと分かったら、信濃の全軍一万を率いて、岐阜城、清須城を攻めたいと思います。御屋形も、甲斐、駿河の残る一万の全軍を連れて、遠江に侵攻して、徳川家の押さえをお願いしたいと思います」と言ったのです。

 しかし、勝頼には、仁科盛信の策は、少し危険だと思いました。信長が、たとえ、死んだとしても、織田軍が滅びたわけではありません。岐阜城や清須城には、守っている兵もいます。徳川家も黙っているとは思いませんし、背後を北条に突かれたら、守る兵のいない甲斐、信濃、駿河は、ひとたまりもありません。無茶だと思ったのです。

 それで、そのことを、少し笑いながら性急しすぎるといったら、仁科盛信はあっさり認めました。確かに、信長が、病気なので急死したら、兵を出す構えをみせて、毛利氏を助けて、後は時勢を見たら言いといったのです。でも、仁科盛信は、持論を改めるつもりはありませんでした。その後、「もし信長が、戦で敗れたり、万が一、家臣の反逆で死んだりしたら、一気に、死ぬ気で、美濃、尾張を取るべきだ」と言ったのです。

 また、仁科盛信は、その理由として、信玄公が病気でなくなった後の武田家を例にあげました。その時、武田家臣は、呆然としていました。嘆き悲しんで、何も考えられませんでした。でもそれが、ある程度覚悟していた病死でなく、信長が、戦で死んだら、織田家中は、もっともっと酷い事になっている、岐阜城や清須城を、五千や三千の兵で、守っていても、武田軍が、復讐を誓って、攻めてくるといううわさが流れたら、恐怖で、守備兵は、半減して、岐阜城、清須城も取るのは、そんなに難しくないというのです。

 しかも、尾張、美濃を占領したら、散々、武田家を苦しめる、徳川家も、武田家に従うようになりますし、北条家との同盟も復活すると断言しました。仁科盛信は、そのことに自信があったのです。

 でも、まだ勝頼には、そんな仮定の話には、半信半疑でした。信玄が亡くなった後の武田家家臣団の様子を体験している勝頼には、仁科盛信の言っていることはよく分かります。しかし、まだ、そんなにうまくいくとは思えなかったのです。

「それで、そんなにうまくいくか」と、少し弟をからかうように思わず、言ってしまったのです。でも、兄である勝頼の性格を良く知っている仁科盛信は、「それはすべて兄である御屋形様の決意一つ」だと答えました。仁科盛信は、勝頼が、乗ってきたことに手ごたえを感じ始めたのです。

 

 

情報戦

 「わしの決断しだい」勝頼は、仁科盛信の言葉にそう反応しました。
 仁科盛信は、頷くと、「そうです。もし、戦場で、信長が急死すれば、我々に有利に働くことが一つあります。それは、織田家中にしろ、徳川家にしろ、まったくそのことに対して準備しないのに対して、お屋形様は、予測して、準備していることです。準備を事前にしていたら、それだけ早く兵を動かせます。後は、いかにして、信長が急死した情報を、毛利家、上杉家、、北条家、徳川家よりもどれだけ早く掴むことができるかです。とりわけ、家康に負けるわけにはいきません」

「家康」勝頼は、その言葉にそう反応しました。家康は、勝頼のライバルになっていたのです。仁科盛信は、そんな勝頼に対して、「徳川家康も、一角の武将です。必ずや、信長が戦場に散ったとしったら、すぐにでも尾張、美濃に攻め込むでしょう。甲斐と三河では、距離的に言っても、遥かに、三河の方が近いです。何も用意していなかったら、折角の好機を見逃してしまうことになります」
「徳川家康に、尾張、岐阜を取られたら、折角のチャンスも活かすことはできません。武田家は、この苦境から逃れることはできません。信玄公の夢、京都に旗を上げることもできません。

 仁科盛信は、そういいました。勝頼は、弟の仁科盛信が、まだ、父、信玄公の夢、天下統一を諦めていないことに正直呆れてしまいました。長篠の戦いの敗戦後、勝頼は、そんな事を考えたこともありませんでした。唯一、上杉謙信が、上洛した時は、自分も、岐阜城を落とし、美濃、尾張を支配したいという望みを持っていましたが、すぐに消滅しました。

 今、武田家の家臣で、そんなことを考えている人物は、仁科盛信ぐらいです。知将で有名な真田昌幸さえ、そんな事は口に出したこともないのです。だから、勝頼は、そんな仁科盛信の思いを尊重してやりたいと思いました。仁科盛信の言うことは、根拠がなくても、リスクもそんなにありません。信長が、万が一、急死する事も考えて、できるだけ最大限の準備をしておけというだけです。今の、自分に、武田家の当主として、できることは、確かに、それだけで、他にはないとも思ったのです。

 また、勝頼は、そんな盛信が、自分より先に生まれて、武田家を継いだら、どうなっていただろうかとふっと考えました。側室の油川は、甲斐の女性です。諏訪家の出だと、家臣に影口を叩かれる心配もありません。しかも、頭もよく、家臣達からも信頼されています。もし、仁科盛信が、自分よりも、先に生まれていたら、正式に武田家の跡目も告げましたし、長篠の戦で、あんな敗戦をすることもなかった可能性が高いです。

 しかも織田信長、徳川家康を破ることはできなくても、もっとうまく互角に戦った可能性もあります。勝頼は、そんな仁科盛信の言葉を信じてみようと思いました。後、一日か、二日、高遠城に滞在して、仁科盛信の考えを全部聞いて、甲斐にいる知将の真田昌幸を呼んで、三人で、情報戦で負けないように、最大限の努力をしたいと思いました。後は、そんな勝頼や、仁科盛信を、諏訪大明神や、武田家の氏神、八幡大菩薩が、どうされるか任せよう。自分達が死んだら、悲惨な運命がまっている、仁科盛信の娘、今、無邪気に寝ている小督や、勝頼の娘、貞姫の為にも、最大限のことをしたいと思ったのです。

     
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風林火山 「武田家日記」


「武田勝頼の復活」
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2011年 縁の花お手紙

すべての読者の皆様に緊急連絡

 

『この縁の花を読んで頂いている皆様へ

緊急連絡です

2010年、12月23日〜26日

金沢済度の旅をした事で

俺は、2011年〜2012年12月23日

俺の50歳の誕生日で

フォトンベルトに突入するとか

マヤ歴の予言でも

人類が滅亡するかもしれないと言う日まで

俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました

 

と言うのも、俺は、1993年10月1日

18年前に、何故縁の花を書き始めたのか

この世で、皆さん、一人、一人と

何を約束したのか

全部、明快に分かったからです

 

しかも、長年探し求めていた

日本や世界、人類を救う方法も

その手段も分かりました

答えは、すべて縁の花の中

皆さんにあったのです

 

だから、俺は、それを

この2年間という短い期間の間に

皆さんに、伝えきるつもりです

皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる

目には、見えない存在を救い切る覚悟です

 

是非、キクの命がけのお願いです

「2011年、縁の花の読者の皆様へ

キクの命がけのお願いの手紙」

をお読み頂きたいと思います』

 

2011年 縁の花のお手紙サイト

http://www.geocities.jp/ennohana/2011ennohana/ennohana1.html