縁の花

     (21世紀に咲く智閥の花)  

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           武田勝頼の復活

9「天下平定」

       賤ヶ岳の戦い
 七月十五日と十六日の八代の合戦で、家康を破ったことは、勝頼にとって大きな自信になりました。長篠の戦以降、自分は、家康、信長に、武将として劣っているのではないかと内心思っていましたが、その不安は完全に消えました。これからは、織田、徳川の時代ではなく、武田の時代だと確信したのです。

 また、それは北条家も同じでした。家康の敗戦を知ると、北条家も、上野から撤退しました。勝頼の要請で、越中の佐々成政をけん制していた上杉景勝も、勝頼の依頼で、上野に入ろうとしていました。もう武田家と戦っても、無駄だということが分かりました。尾張、美濃を手に入れた武田家の強大さが、北条家から戦意を奪いました。武田と北条の和議が始まろうとしていたのです。

 でも、戦自体は、まだ終りませんでした。伊勢では、北畠信雄と名乗っていた信雄が、織田の名字を名乗ると、尾張の清須城に攻めて来ました。織田の名前を名乗り、家督を継いだという織田信正が許せなかったのです。また北条家の相模に逃げ込んだ家康も、相模、伊豆には留まらずに、すぐに箱根を越えると、駿河を突破して、遠江に逃げました。実は、家康は、そのことも想定して、わざわざ逃げるルートを、早く戻れる帰れる御坂道にしていました。武田家と北条家の和解を恐れていたのです。

 

だから家康は、相模に逃げると、すぐに大急ぎで、北条軍、一万の援軍の力を借りて、本国に逃げるしかありませんでした。北条氏政も、徳川家康が、突然、領国に入ってきたのに、戸惑い、厄介払いをしたくて、駿河まで、一万の兵を貸してくれたのです。

 それに対して、勝頼も、慌てて、蒲原城に兵を送りましたが、一日遅れで間に合いませんでした。まさか、家康が、ここまで早く、逃げるとはさすがの勝頼も予想していなかったのです。改めて、家康の武将としての偉大さを知ったのです。しかも、その為に、勝頼は、すぐに再び、尾張に向かうことになりました。家康は、今度は尾張に、織田信雄の要請で、軍を向けたからです。まだ、戦は終っていないのです。

 

しかし余裕はありました。北条家との和議も進み始めました。もう、北条家が、武田家に戦を仕掛けてくることはありません。安心して、伊勢の織田信雄、三河の徳川家康を叩けるのです。

また、賤ヶ岳で、柴田勝家とにらみ合っている、明智軍と仁科盛信の率いる武田軍のいる戦場も、ずっとにらみ合いの状態で、どちらも一歩も動こうとはしませんでした。柴田勝家も、倍ちかい明智軍、武田軍を見たら、さすがに慎重になったのです。でも、勝頼が、尾張に戻ると、一気に、明智軍、武田軍、有利になりました。勝頼は、弱い織田信雄を徹底的に攻めて、清須城を攻めていた織田信雄を、伊勢に押し込めると徹底的に叩きました。わずか一ヶ月間の間で、織田信雄を、本城の津城まで追い詰め、命を保障を条件に降伏させてしまったのです。

こうなっては、さすがの柴田勝家も、もうどうすることもできませんでした。その上に、徳川家康までも、勝頼の説得で、武田勝頼に降伏しました。家康は、これ以上戦っても、見込みがないことを悟って、本領安堵を条件に、武田方についたのです。しかも、上杉軍の猛攻も、激しく、越中を守っている佐々成政も、苦戦しています。

それで、柴田勝家も、賤ヶ岳から撤退して、越前に戻り、ここで、何と織田信正に降伏したいと言い出しました。明智光秀や勝頼には、降伏することはできませんが、織田信長の五男織田信正に、越前、加賀、能登、越中を貰って頂けるならという条件で降伏したいと言い出したのです。智将の真田昌幸が考えた謀略が動いたのです。

 

羽柴秀吉の降伏

柴田勝家が、賤ヶ岳の戦を中止して、越前で、織田信正に降伏したいと申し出たことは、各地に大きな影響を与えました。もう、明智軍、武田軍と敵対しているのは、摂津の富田でがんばっている羽柴秀吉だけになったのです。これで利に敏感な羽柴秀吉も、降伏を考えました。明智軍、武田軍が、ここまで有利と分かれば、背後にいる毛利家もどうなるか分かりません。明智軍、武田軍から要請されたら、断りきれるはずがないのです。 いえ、もうすぐ、毛利が動く、情報も届いていたのです。

だから羽柴秀吉もあっさり降参を申し出ました。恩人である織田信長に謀反を起こした信長に降伏できないので、柴田勝家と同じように、織田信正に領地を差し上げて、織田信正に降伏したいと明智光秀に申し込んだのです。そうすることで、明智光秀と、武田勝頼が争うことを密かに願っていたのです。

しかし明智光秀は、その条件を飲みました。明智の家臣たちは、柴田勝家が、武田家の人質になっている織田信正に降伏したいと言った自体、武田家が裏で手を回して、策をめぐらせたことだと言って、憤慨していて、羽柴秀吉の降伏を受け入れるべきでないと反対していましたが、明智光秀は、以外にも、条件をつけましたが、あっさりと承知したのです。

何故なら、明智光秀自身、武田家のやり方に憤慨しましたが、これ以上、いくさはしたくないというのが本音でした。特に、羽柴秀吉や、柴田勝家は、同じ織田家の仲間として、共に戦って仲間です。仲は、織田家の家中では、お互いにライバル同志なので、決していいということでもありませんが、一緒に戦ったいい思い出もたくさんあります。しかも、戦っている兵は、同じ織田家の兵です。戦は、もうこれ以上したくなかったのです。

 だけど、信長を殺した自分に、羽柴秀吉が、どんな事があっても、降参できるはずができないもの事実です。羽柴秀吉と同じように、何も持っていない自分を拾いあげ、一国以上の藩主にしてくれたのは、他ならぬ信長です。命の恩人です。その気持ちは、光秀自身、痛いほど分かっています。自分が、羽柴秀吉でも、絶対に降伏はできないだろうと思ったのです。

 また、羽柴秀吉にしろ、織田信雄にしろ、柴田勝家にしろ、織田信長が生きていたら、順調な人生でした。それをここまで狂わせたのは、他ならぬ明智光秀自身です。だから、明智光秀自身、羽柴秀吉や、柴田勝家に対してすまないと思う気持ちはありました。このままでは、羽柴秀吉も、柴田勝家も絶対許さないので、明智光秀は、愛する妻や家族、一族を守るためにも負けるわけにはいかないので、必死に戦いましたが、できたら羽柴秀吉の妻、ねねなどの知っている人々、特に、女、子供は、戦国時代の倣いとはいえ、明智光秀は殺したくなかったのです。

それで光秀は、柴田勝家には、越前の国を、明智軍に割譲させましたが、残る加賀、能登、越中は、織田信正の領土と認めましたし、羽柴秀吉とも交渉して、羽柴秀吉の条件だと、戦った家臣が納得しないので、摂津と但馬は、明智領としましたが、後は羽柴秀吉の言うように、播磨、因幡は、織田信正領、美作、備前は、宇喜田秀家領とすることで合意しました。これ以上、戦を長引かせて、愚図愚図したら、柴田勝家を降伏させた、武田勝頼が、羽柴秀吉の戦に介入することを恐れたのです。今、尾張、美濃、伊勢を手に入れ、徳川家康を家臣にして、上杉、北条とも同盟を結んでいる武田家と逆らって、戦をしても、とても勝ち目がない事は分かっていたのです。

そして、明智光秀は、羽柴秀吉が降伏すると、二人だけになって、素直に信長に謀反を起こして、殺したことを詫び、他の織田家の家臣にも詫びました。その上で、今度は、勝頼と、二人で会って、今後の事を話し合う決心をしたのです。

 

 

安土会議

武田勝頼と明智光秀が、近江の織田信長が造った安土城で会ったのは、八月十三日でした。羽柴秀吉との交渉がまとまり、和平が正式に決まった後、明智光秀が、勝頼のいる岐阜城で会いたいといったのですが、それに対して、武田勝頼は、岐阜城ではなく、安土城にしようと提案しました。明智光秀は、信長に謀反を起こしたということで信頼がないことを気にしています。それで、自ら、勝頼にいる城に行くといったのです。それに勝頼は、安土城に、自分が行くことで、答えたのです。だから勝頼は、弟で、副将の仁科盛信に、後はすべて任せると、念の為に、2万の大軍で、安土城に入ったのです。

しかし、それに対して最初、武田家の家臣は、反対しました。もし、信長と同じようにされたら、どうするのだというのです。でも、勝頼はあえて行きました。跡継ぎの信勝も、立派な武将になりました。弟の仁科盛信もいます。何も、心配がなかったのです。それに、明智光秀が、武田勝頼に、何の危害も加えるつもりはないことは分かっています。明智光秀も、勝頼を、信長と同じように、殺したら、天下の信頼は完全に失って、すぐに明知一族は、滅亡することは分かっています。勝頼は、何の不安もなかったのです。

また、明智光秀は、安土城では、わずか三十名の家臣だけで待っていました。行く途中にある、近江の横山城、佐和山城、観音寺城も空でした。明智光秀も、それで勝頼に誠意を見せたのです。その上で、光秀は、武田勝頼と、安土城で、今後の天下の事を話しました。世に言う安土会議です。

ここで、明智光秀は、何故、自分が、主君である織田信長に謀反を起こしたのか、武田勝頼と二人きりになった時に説明しました。それは、天皇を守りたいということでした。ただ、その詳細は、武田勝頼も、明智光秀との約束なので、死ぬまで、詳しくは誰にも言いませんでした。勝頼と光秀の約束だったのです。勝頼は、それを最後まで守ったので、2007年の今も、詳しくは分からないのです。

そしてそんな光秀に対して、勝頼は、理解を示しました。明智光秀は、天下を取りたいために、信長に謀反を起こしたのではないことを認め、天皇家や武田家を救ってくれたことに、心から感謝したのです。

また、そんな明智光秀は感動し、安心すると、いくつかの条件を出しました。
それは天皇家をずっと尊重し、日本の財産として守ること。室町時代の足利家に対しても、それなりに優遇すること。日本から戦がない平和な世の中を築くこと。武田家が、天下をとっても、信玄公のように、民を大切にして、各大名に関しても、武力に訴えず、厳しい圧力や、取り潰しはしないこと。世に言う明智光秀の提言です。明智光秀は、それが、武田家が守ってくれるなら、信長に謀反を起こした自分ではなく、甲斐源氏として、家柄もはっきりしている、武田家が、足利家に代わって、天下を取るべきだといいました。武田幕府を開くべきだと薦めたのです。しかも明智光秀は、その為なら、自分は、喜んで、家臣になると言い、足利義満にも、武田家に、幕府の権利を委譲するように説得すると誓ったのです。

こうして、武田幕府の誕生は決まりました。勝頼は、その二日後、八月十五日、織田信正を喪主とした盛大な信長の葬式をした後、本能寺の変、以後の処置を完全に決めました。
織田信正には、尾張一国を与えました。その中に、織田信雄と織田信孝に5万石ずつ与えています。柴田勝家には、美濃の半国を与え、残る半国は、前田利家や佐々成政などの柴田勝家の与力に与えました。同じように、羽柴秀吉にも、伊勢半国を与え、残りを、与力として活躍した、宇喜田秀家、丹羽長秀などに与えたのです。その代わり、加賀、能登、播磨、但馬、因幡、美作、備前は、武田領としたのです。

これに対して、織田家の一族や、織田家の家臣からは不満が出ましたが、明智光秀自身が、手にした近江や、越前、摂津などの国を、武田勝頼に委譲して、丹波、若狭、山城、三国の大名になったので文句は言えませんでした。明智光秀の、その行動で、織田家の家臣達も、しぶしぶ納得したのです。


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2011年 縁の花お手紙

すべての読者の皆様に緊急連絡

 

『この縁の花を読んで頂いている皆様へ

緊急連絡です

2010年、12月23日〜26日

金沢済度の旅をした事で

俺は、2011年〜2012年12月23日

俺の50歳の誕生日で

フォトンベルトに突入するとか

マヤ歴の予言でも

人類が滅亡するかもしれないと言う日まで

俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました

 

と言うのも、俺は、1993年10月1日

18年前に、何故縁の花を書き始めたのか

この世で、皆さん、一人、一人と

何を約束したのか

全部、明快に分かったからです

 

しかも、長年探し求めていた

日本や世界、人類を救う方法も

その手段も分かりました

答えは、すべて縁の花の中

皆さんにあったのです

 

だから、俺は、それを

この2年間という短い期間の間に

皆さんに、伝えきるつもりです

皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる

目には、見えない存在を救い切る覚悟です

 

是非、キクの命がけのお願いです

「2011年、縁の花の読者の皆様へ

キクの命がけのお願いの手紙」

をお読み頂きたいと思います』

 

2011年 縁の花のお手紙サイト

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