縁の花

     (21世紀に咲く智恵の輪)  

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           武田家済度

「武田家済度」

923日から924日にかけて、再び、金沢まで済度に行ってきました。前回、海の済度に参加した時に、お世話になったKさんに、再び、お誘い頂きました。それで、海の済度は、どんなに遅くても、10月までだということなので、行く事にしました。

だって海のない甲斐、信濃を領地しにしていた武田家の御霊、英霊にとって、海は、本当に憧れの存在です。何度言っても、喜ぶと思います。それで、行く事にしました。プラットホームの祭りが終った後、新大阪駅から、金沢に夜に向かい、知人の家に泊めていただいたのです。

そして翌日、再び、多くの済度の仲間がいる海岸で、海の済度に参加しました。前に参加した時に比べたら、暑いとはいえ、さすがに9月末です。海は、冷たくなっていました。そんな冷たい海の中で、これから済度する人達は、大変だろうなあと思いながらも、海の済度、大いに楽しんだのです。

しかし、それが再び、武田家、本来の済度に繋がるとは、夢にも思いませんでした。前回、8月の海の済度では、済度の皆と、食事をするご縁になった時に、女城主という名前のお酒が、突然登場して、秋山信友とおつやの方などの岩村城の済度をさせて頂いたことを書かせて頂きました。

女城主とは、おつやの方のことです。武田家の家臣、秋山信友に、岩村城を攻められて、城の城兵の命を守る為に、自分の正室にしたいという途方もない条件を飲んで、敵である、秋山信友の夫人になったのです。

でも、そんな裏切りを、あの織田信長が、許すわけがありません。信玄公が亡くなった後、長篠の戦で、武田勝頼が、大敗すると、岩村城を囲んで、降伏を勧告して、秋山信友と、おつやの方が降伏すると、約束を破って、だまし討ちしました。二人は、はりつけにされたのです。

そのおつやの方を偲ぶ名前のお酒が、わざわざ、金沢にいる菊の目の前にあるということ、きっと秋山夫婦の御霊の導きだと確信しています。菊は、前世、武田勝頼として、秋山夫人や、岩村城の冥福をお祈りしたのです。

だけど、そんな菊に、再び、武田家の済度のご縁が待ってくれていたとは、夢にも思いませんでした。今度は、武田家の四重臣の一人で、山縣の「赤備え」と恐れられていた、山縣昌景の導き、済度が待っていたのです。

 

武田家の御霊の怒り?? 車のタイヤの破裂事件 

 というのも、菊が、金沢に行く、前日、前世、武田信玄公の魂を、一部持っていて、今回、武田家の済度をする為に、武田信玄役を志願しているIさんが、偶然に、「越前山縣家と武田信玄」というパンフレットを、済度の仲間から貰ったというのです。それで、今、福井県の福井市立郷戸歴史博物館で、武田家の家臣だった山縣昌景と、武田信玄公遺物を、展示されていることを知ったそうです。そんな情報が、突然、前日、入ってきたのです。

 しかも、その遺物には、信玄公がかぶっていた兜などもあって、夜、Iさんは大変だったそうです。苦しんでいる武田家の御霊が出てきて、「どうして信玄公の兜」が、そこにあるの。何故、福井、甲斐から、遠く離れた福井、越前にあるのと訴えたそうです。Iさんは、それで、高熱にうなされ、おなかの調子も悪くて、本当に体調が悪かったといいます。たぶん、多くの武田家の御霊が、前倒しで、信玄公であるIさんに頼って来たのだと思います。

でも、そんなIさんは、薬も飲まず、医者にも行かず、済度の言葉を唱えていたなら、見事に治ったそうですが、早朝の海の済度では、元気な姿を見せてくれました。とても、体調が悪い人だったとは思えなかったのです。

 また、その後、Kさんや、Iさんと、海の済度、楽しんだ後、何故か、昔から、菊のことを知っているKOさんとも、会って、福井市立郷戸歴史博物館に、行く事になりました。武田家の展示が福井であるといわれたら、これは行くしかなかったのです。

 それで、菊は、Iさんの運転で、Kさんと共に、車で行き、KOさんは、別な龍竜さんの車で、福井に向かったのです。しっかり、武田家、山縣家の済度をしようと思ったのです。

だけど、そんな武田家の済度、一筋縄にはいきませんでした。何と、Iさんが、高速道路を走っていた時に、車が、突然、ガタガタして、パーキングに入って、車の後を見たら、何と左側のタイヤが、破裂していました。木っ端微塵になっていたのです。これには、三人とも、絶句です。このまま走っていたら、車がスピンして、大きな大惨事になる可能性もあったのです。

だから、菊も、まさか、こんなに酷いことになっているとは夢にも思わなかったので、驚いてしまいました。いえ、菊は、今時、タイヤが破裂するなんて、信じられなかったのです。きっと、武田家の御霊が、何かを伝えたかったと思います。いえ、前世、武田勝頼である自分に対して、長篠の戦で、破裂したタイヤのように、大敗した、前世、武田勝頼である菊に対して、怒りを表現したのではないかと、ドキッとしたのです。


しかも、不幸なことにIさんは、スペアーのタイヤもなければ、ジャッキーも用意していませんでした。結局、JAFFに頼んで、来てもらうことになったのです。

だけど、JAFFに頼んだら、駆けつけてくれるのに、時間がかかります。困っていたら、助けてくれたのは、KOさん達でした。携帯で、報告したら、すぐに駆けつけてくれて、ジャーキーでタイヤを外し、新しいタイヤを買いに、走ってくれたのです。

その上に、買いに行った、カーショップでは、中古のタイヤが、あったということで、本当に驚く短期間で、戻ってきて、車にタイヤを装着してくれました。タイヤ代も、1万円は覚悟していましたが、2500円と安く買うことが出来たのです。

だから、タイヤの装着に時間をかけていたら、いけなかった、福井市立郷戸歴史博物館にスムーズにいけました。KOさんと龍竜さんが、案内してくれたので、後をついて行ったら、良かったのです。こうして、Iさんや、Kさんや、菊は、そんなに時間をロスすることもなく、無事、福井市立郷戸歴史博物館に行くことができました。5人で、福井市立郷戸歴史博物館の展示物をゆっくり見学させて頂いたのです。

 

 

前世、織田家の救援
 
その上に、面白いのは、何と、KOさんの前世が、織田信長だということです。というのも、KoさんやIさんなどの済度の人は、織田信長や上杉謙信、豊臣秀吉などの日本の歴史上の人物や、ジャンヌ・ダルクなどの、ヨーロッパや中国の歴史上の有名な人物になっていて、今、済度によって、その時代にしてきたことを消しているそうです。

歴史上の人物として、戦争とか、惨殺をして、多くの人を苦しめ、御霊の恨みを買っているのですが、それを、今世、済度する事によって、今も、この世に存在している御霊を救おうとしているのです。従って、済度のご縁についている人は、いろんな歴史で、活躍した人物の魂を、一部ずつ持っている人ということになりますが、KOさんや、Iさん、もしかしたら、菊や、Kさんも、そうかもしれないのです。

でも、今回のタイヤの破裂で、菊が嬉しかったのは、そんな困っている前世、武田家の人達を、敵方であった前世織田信長のご縁の人達が、救援に来て、助けてくれたことです。これは、本当にすごいことだと思います。わざわざ、武田家の御霊や、織田家の御霊は、そんな演出をする為に、車のタイヤを破裂させたのではないか。これは、武田家や織田家の御霊が、タイヤを破裂させたことで、前世、武田家の人達に、怒り、長篠の戦で、大敗した前世、武田勝頼の菊を攻めるのではなく、その済度の大変を伝え、それを他の前世、織田家の人達なども、応援してくれることを、意味している気がしたのです。

まさしく、災い転じて福となすです。菊は、そう思いましたし、新たに、武田家だけでなく、前世、織田家の仲間も加わりました。本当に、御霊達の導きには、心から感謝したのです。

その上に、KOさん達は、さすがに福井にいるだけあって、一向衆の人達の済度を考えているそうです。一向衆は、ご存知のように、織田信長と戦い、石川県でも、加賀一向衆に対しても、本当に酷いことをしています。柴田勝家や、前田利家は、信長の命令で、一向衆の人達に惨殺しているのです。

ですから、KOさんは、そんな一向衆の人達の済度を考えているそうです。石川県でも、一向衆の御霊さん達は、まだ封印されているのか、まだまだ歴史が分かっていませんし、慰霊の場も、ないのですが、何とか、自分達で済度したいと思っているそうです。

菊自身、すばらしいことだと思うのです。また、前世、武田の時、武田信玄公と、一向衆、本願寺は、同盟を結んでいました。信玄公の正室、三条夫人の妹は、本願寺の第11世門主である顕如(けんにょ)に嫁いでいる事もあって、織田包囲網を、共に築いていたのです。

しかも、勝頼の妹、後に上杉景勝にと継いだ菊姫は、最初は、長島の一向衆の寺、願証寺の僧、顕忍と婚約していました。それが、信玄が亡くなった後、織田包囲網は、あっと言う間に崩壊して、長島の一向衆は、すぐに、織田軍に、包囲されて、長島にいた2万人から、3万人の一向衆は皆殺しになりました。武田勝頼は、その時に、救援を依頼されましたが、援軍を送ることはしませんでした。見殺しにしているのです。

だから、菊と、一向衆とは、前世武田勝頼を通してご縁があります。大きな貸しがあるのです。それで、菊も、KOさんの済度に、もしかしたら、関わるかも知れません。織田家と武田家が、協力して、福井、金沢、能登にいる一向衆の御霊達を、協力して済度していくことになります。本当に、不思議なことになったなあと、そんな事を考えていたのです。

 

 

武田四重臣 山縣昌景

山縣昌景は、信玄子飼いの武将で、知略に富み、猛将としても有名でした。あの徳川家康も、三方ヶ原の戦いでは、大いに破って恐れさせています。兜から、鎧、槍まで、すべて赤で統一していて、「赤供え」としても有名で、武田家では、先陣を常に、していたのです。

しかもこれも不思議なご縁ですが、923日の大河ドラマ、風林火山を見た人なら分かると思いますが、信玄公は、飯富昌景と、春日源五郎、後の高坂弾正を、使い番から、武将に抜擢したシーンがありました。その青年将校である飯富昌景が、後の山縣昌景になるのです。

また、その事は、今世、武田信玄公の魂を持っている、済度で信玄公役をしているIさんは、ご存知なかったので、菊が、説明したら、昨日の大河に出ていた人物ということで分かってくれました。Iさんは、歴史が好きですが、今世は、戦国時代とか、太平洋戦争の頃は、嫌いで、関心がなかったそうです。それで、菊が、ご説明役しましたが、前日の風林火山のドラマのおかげで、一言で分かって頂けたのです。これも、すべて必然だと思います。

では、次に、そんな飯富昌景が、何故、山縣昌景になったかですが、それは、飯富昌景の兄、飯富虎昌との縁によります。飯富虎昌は、風林火山の番組を見ている人なら分かると思いますが、信玄の嫡男、後の義信の守役として活躍しています。武田勝頼を擁護する山本勘助とは、何度も、対決しているので覚えている人も多いと思います。

しかし、そんな飯富虎昌は、今川義元が、桶狭間の戦いで亡くなった後、駿河侵攻を考える信玄と、嫁の里である駿河、今川家を守ろうとする義信の対立で苦しむことになります。あくまでも、義信は、父である信玄の意見に従おうとせず、信玄がやったことと同じように、今度は、父、信玄を、甲斐から追放しようとするのです。

でも、そんな企ては、無謀でした。武田家臣が、見事に結束して、クーデターを成功させた信虎の時とは、大きく事情が違います。武田家臣団が、信玄追放に賛成するはずがないのです。

 だけど、飯富虎昌が、いくら説得しても、義信は従おうとはしませんでした。そんな中で、陰謀自体が、発覚しました。それで、飯富虎昌は、義信公を守る為に、自分が、企てたこととしました。それで、信玄に、処刑されました。飯富虎昌は、それで、義信公を忌めようとしたのです。

 だけど、その願いは、義信公には伝わりませんでした。義信公は、最後まで、駿河侵攻に反対して、自刀しているのです。でも、信玄は、そんな飯富虎昌の気持ちは分かっていました。そんな飯富虎昌の家督は、全部、弟の飯富昌景が継ぐことになりました。飯富虎昌は、その事を考えて、弟の飯富昌景に、自分の謀反を、信玄に通報させたと言われているのです。

 だから、信玄は、そんな飯富虎昌や飯富昌景の兄弟に対して、恩義を感じていて、飯富昌景を重く用いました。謀反を起した飯富という名前は、まずいので、源氏の名家、山縣の名字を与えて、高坂、馬場、内藤と同じ、四重臣として、絶大な信頼をおきました。武田家臣団は、そんな山縣昌景の存在に、当然の事として、異論は挟まなかったといわれているのです。

 

 

山縣昌景と武田勝頼
 
 そんな山縣昌景さんですが、前世、武田勝頼としては、真に言い難いことですが、信玄が亡き後、その山縣昌景を使いこなせなかったといいます。若い武田勝頼は、日頃、先代の信玄公の名前を出して、いろいろ自分の考えに、口を挟む重臣達と対立してしまったのです。

 しかも、そんな勝頼を一部の若手の家臣を支持したこともあって、その対立は、新旧の家臣の対立になりました。そんな中で、勝頼は、自分を支持してくれる若手の家臣を重用してしまうという愚かなことをしてしまいます。信玄公が、残してくれた家臣の意見を、聞こうとはしなかったのです。

 でも、それでも最初は、よかったのですが、信玄公の作った包囲網が崩れて、急速に、信長が、浅井、朝倉、長島の一向一揆を、次々と滅亡していくと、焦って、ついに、長篠の戦で、墓穴を掘ってしまいます。17千で、4万になる織田・徳川軍と戦い、大敗してしまいます。
 
 ただ、この長篠の戦で、どうして勝頼が、2倍以上も兵力のある織田信長や、徳川家康と、正面から戦を望んだかは、はっきりとは分かっていません。そんな無謀なことは、常識で考えても、する訳がないのです。しかし、そんな戦を、勝頼はしてしまったのです。

また、重臣である山縣昌景や、馬場信春は、そんな無謀な戦いを必死で諌めたといいます。信玄の元で戦った、百戦錬磨の山縣昌景や、馬場信春には、たぶん、勝頼の敗戦が、見えていたのだと思います。勝頼は、あの時に、二人の意見を真剣に聞いていたら、長篠の戦の敗戦はなかったのです。

でも、山縣昌景や、馬場信春は、自分達の意見に、勝頼が聞く耳がなく、否定されても、必死で武田家のために戦いました。勝頼を逃がす為に、織田軍を食い止め、討ち死にしました。勝頼は、この長篠の戦で、信玄が育てた多くの有能な家臣を亡くしてしまい、二度と、本当に立ち直ることは出来なかったのです。

だから、菊は、山縣昌景に対しては、ずっと、申し訳ない気持ちで一杯です。いえ、他の武田家臣に対しても、武田家を滅ぼしてしまったことに対して、本当にすまない気持ちで一杯ですが、特に、その中でも、山縣昌景、馬場信春、高坂弾正、内藤昌豊などの、武田四重臣や、長篠の戦で亡くなった家臣に対してはあります。

もっと、素直に、山縣昌景などの、優れた重臣の意見を聞いていたらよかった。菊は、そんな気持ちを持ったまま、福井市立郷戸歴史博物館で来てくれる、山縣昌景の御霊さんに会おうとしていたのです。

 

 

越前山縣家

そしてそんな中で、山縣昌景が亡くなった後の山縣家は、長篠の戦で、同じく長男の昌次もなくなった後を、次男の昌満が、継ぐことになりました。勝頼は、山縣昌景の子孫に、後を継がせたのです。ですが、その後の事はよく分かっていませんでした。昌満に、父、昌景のような器量はなかったのか、大きな働きはしていないのです。

 しかも、武田家自体も、長篠の戦の7年後、織田信長に滅ぼされ、多くの家臣は、殺されています。悲惨な目にあっています。その時に、菊は、山縣家の消息もずっと分からなくなっていたと思っていたのです。

 でも、今度、福井市福井市立郷戸歴史博物館に行くご縁で、山縣昌景の子孫は、昌景の三男、昌久の子供、昌時の時に、初代福井県藩主、結城秀康によって、召抱えられ、以後、子孫は、代々、松平家で繁栄したことを知りました。上級藩士として、高禄に使え、家老、城代の要職に就いたものもいたそうです。山縣昌景の子孫は、繁栄して、本当に、心から良かったと思います。

 その上、山縣昌景の子孫は、昌時の八代孫の正俊に至るまでは、山縣姓を名乗らず、結城秀康の命によって、笹治家と名乗っていたのを、その後は、山縣の名字に戻してくれています。先祖の山縣家の誇りを取り戻してくれたのです。

 菊は、恥ずかしながら、そんな事は、全然知りませんでした。以前、インターネットで、調べた時も、山縣昌景の子孫についてはよく分からなかったのです。いえ、菊は、勝頼が、滅ぼしてしまった後の、他の武田家臣団に関して、詳しくは知ろうとはしませんでした。

武田家の家臣は、武田家が滅亡した時に、信長によって、多くが殺されたことと、すぐその後、甲斐、信濃を支配した、家康によって、徳川家の家臣に召抱えられて、江戸時代は、旗本や奉行として、長くは繁栄したことは知っていましたが、個別に、熱心に調べようとはしませんでした。今、その事を、菊はとても反省しています。申し訳ないです。

何故なら、今の時代、武田家臣のその後も、インターネットで、検索したら、有名な家臣であれば、調べることは、そんなに難しくはありません。現に、高坂弾正、馬場信春、内藤昌豊についても、少しは分かりました。それだったら、前世、武田勝頼の魂を、一部持つものとして、そういったことは、知らないといけないと思います。菊には、武田家を滅亡させた直本人として、その義務があるのです。

今回の山縣昌景のご縁は、そのことを菊に教えてくれた気がします。前世、武田勝頼の菊に、山縣家は、武田家が滅亡した後も、繁栄したので、ご安心下さい。山縣昌景の御霊や、山縣家の多くの御霊さん達は、その事を、暖かく、菊に伝えてくれたと思うのです。菊を、責めようとはしなかったのです。本当に、武田家の御霊さん、ありがとうございますと心から感謝したいと思います。

 

 

秋季 特別陳列 信玄公の兜

福井市立郷戸歴史博物館に入って、秋季 特別陳列 越前山縣家と武田信玄のコーナーに、五人の済度の人達と入りました。まず、一番、最初に展示していたのは、信玄公が被っていたと言われている兜でした。

菊は、それを見て、前世、信玄公であるIさんの夢に、多くの武田家の御霊が来て、どうして兜がここにあるのと訴えた気持ちが分かった気がしました。菊自身も、信玄公の兜が、どうして甲斐から、遠く離れた越前にあるのか不思議な気持ちがしたからです。

でも、福井市立郷戸歴史博物館に、帰ってから、お電話お聞きしたら、山縣家がずっと保管していたくれた兜ということでした。正式名は、四十八間総覆輪二方白筋兜で、京都井伊美術館寄託と書いていますが、山縣家が、代々、守ってくれていたものなのです。

しかし、それが、信玄公の兜だったのか、どうかは分かりません。武田家が滅亡した混乱で、はっきりしたことは分からないのです。でも、菊は、山縣家がそう思って、大切に守ってくれたのであれば、武田家の御霊達にとっては、信玄公の御霊だと思います。その思いが大切であって、本物か、そうでないかは、二の次なのです。
 
だから菊は、その信玄公の兜に対して、その信玄公の兜の背景にいる、武田家の御霊に、心から感謝しました。何故なら、武田家が、滅亡した時、信玄公をずっと恐れていた織田信長の憎しみ激しく、厳しい武田狩りが行われました。武田家一族だけでなく、家臣も、根こそぎ残圧しました。多くの家臣も、騙されて、呼び出されて、殺されているのです。

ですから、その織田家の追求から必死で、逃れた武田家臣の苦労は大変だったと思います。命がけで逃げたのです。血を吐く思いだったと思うのです。菊には、その事は、痛いほど分かります。武田家の御霊が、「どうして信玄公の兜」が、ここにあるのという訴えは、武田家狩りが、本当に苦しかったという思いでもあるのです。

菊は、そう思うと、何も、武田家の御霊に対して、何も言えませんでした。ただ、すまないという気持ちと、冥福を祈らせて頂いたのです。でも、菊は、そんな気持ちは、武田家の御霊もよく分かってくれると思います。もう、許してくれているから、菊や、Iさんを呼んでくれたと確信しているのです。

しかも、今回の武田家済度では、勝頼だけでなく、お屋形様、信玄公も一緒です。武田家親子で、お参りさせて頂きました。心から、武田家の家臣にお詫びしました。武田家が滅亡した時に苦しんだ御霊さんも、二人が、親子で来てだけで、満足してくれたのではないか。菊の勝手な解釈ですが、菊自身、そう思いました。

だって、信玄公の兜以外でも、「川中島合戦図屏風」とか、「長篠合戦図屏風」、「武田家二十四将図」を見た時も、別に、頭が痛くなるとかいう事もありませんでした。武田家の御霊の怒りは、感じなかったのです。

それに、今回の菊には、菊よりも熱心にしている済度の仲間が、四人もいました。エネルギーも一杯持っていますし、御霊を救わせて頂く専門家です。きっと、菊の知らない間に、救って頂いたと思うのです。本当に感謝です。

 

 

ついに、武田家正統のご縁ができました

越前山縣家と武田信玄のコーナーを出た後は、福井市立郷戸歴史博物館を、済度の仲間と見学しました。一通り見てまわったのですが、福井市立郷戸歴史博物館という名前の通り、この博物館は、福井、越前で活躍した、歴史上の人物の博物館でした。

 またその中心は、幕末に活躍した藩主、松平春嶽公や橋本左内などの志士が中心でした。そんな歴史上の展示物を見ながら、思いを幕末において、済度の仲間と、日本の夜明けの為に戦ってくれた志士達にご冥福をお祈りしました。済度したのです。

 でもそんな中で、何と、菊は、現在の武田家の当主になる武田○○さんのことを聞きました。何と龍竜さんは、今、現在の武田家の当主になる人の友人で、何度も会ったりしていますし、家に泊めたこともあるというのです。

 これには菊も、驚きです。本当に信じられない気持ちでした。というのも、武田家は、今、二つの家系があるといわれています。その一つが、二男、信親(別名を竜芳)の家系で、もう一つは、七男、信清の家系です。この内、江戸時代からずっと、目の見えなかった竜芳の家系を、正統の武田家の家系としてきました。

 竜芳が、正室三条夫人の子供であることと、二男だということで、上杉家にいる上杉景勝の側室、菊姫を頼った、七男の米沢武田家よりも、正統として、徳川幕府も、大正時代の政府も、認めているのです。だから、武田家の正統なら、二男、竜芳の系列になりますが、今まで、よく分かっていませんでした。

菊自身も、インターネットで、以前調べて、武田家家臣末裔者の会「武田家旧温会」の資料で、十七世、武田英信さんまでは分かっていましたが、詳しい事は隠しているので、それ以降は、分からなかったのです。その武田家の正統の人とのご縁が、自然な形で誕生したのです。

 しかもIさんは、自分が、まだ前世、武田信玄公かもしれないとはまったく思っていなかった時に、龍竜さんのご縁で、すでにあったことがあるそうです。そんなご縁もあって、自分は、前世信玄公だと思えるようになったそうです。本当に、ご縁とは面白いと思います。

 また、そんな武田○○さんが、結構面白い人で、武士の会に参加して、ちょんまげの姿になったりもするそうです。でも、本職も立派で、あるテレビ局で勤めていて、今は、映画とかドラマの作成のお仕事をしているそうです。もうある映画の脚本もできているそうです。

 菊は、その事を聞いて、本当に、武田家のご縁を感じました。今回、福井市立郷土歴史博物館に、前世織田信長公のKOさんや、現在の武田家の正統な血筋、武田○○さんの友人の龍竜さんが、参加してくれたのは、まったくの偶然です。

 金沢の海の済度に参加していたら、前から菊を知っているKOさんが、一度、話したいと言ってくれ、今から、福井にある福井市立郷戸歴史博物館に行きますといったら、福井の人なので、一緒に行ってくれることになっただけです。前世、武田家の話に、特別なった訳ではないのです。

 だから、今回の武田家の済度は、すべて、天、武田家の御霊達が設定してくれたことになります。何故なら、菊自身、今回は、海の済度という事で、金沢にいっただけで、それが、福井市立郷戸歴史博物館の山縣昌景のご縁や、ましてや、武田家の正統の人に繋がるとは、思ってもいなかったからです。そんなご縁に導いてくれた、武田家の御霊さん達に、心から感謝して、いつかは、正統な武田○○さんにもお会いして、済度したいと思います。
 是非、皆さんも楽しみにしていて下さい。
 では、皆さん、縁の花第245号「武田家済度」お読み頂いてありがとうございます。
 2007(平成19)928日 

 

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2011年 縁の花お手紙

すべての読者の皆様に緊急連絡

 

『この縁の花を読んで頂いている皆様へ

緊急連絡です

2010年、12月23日〜26日

金沢済度の旅をした事で

俺は、2011年〜2012年12月23日

俺の50歳の誕生日で

フォトンベルトに突入するとか

マヤ歴の予言でも

人類が滅亡するかもしれないと言う日まで

俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました

 

と言うのも、俺は、1993年10月1日

18年前に、何故縁の花を書き始めたのか

この世で、皆さん、一人、一人と

何を約束したのか

全部、明快に分かったからです

 

しかも、長年探し求めていた

日本や世界、人類を救う方法も

その手段も分かりました

答えは、すべて縁の花の中

皆さんにあったのです

 

だから、俺は、それを

この2年間という短い期間の間に

皆さんに、伝えきるつもりです

皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる

目には、見えない存在を救い切る覚悟です

 

是非、キクの命がけのお願いです

「2011年、縁の花の読者の皆様へ

キクの命がけのお願いの手紙」

をお読み頂きたいと思います』

 

2011年 縁の花のお手紙サイト

http://www.geocities.jp/ennohana/2011ennohana/ennohana1.html