縁の花

     (21世紀に咲く智恵の輪)  

            249

     

「武田義信公と駿河今川家」

 

∞「キクの前世の兄、武田義信公に捧げます」∞

 

キクは、武田一年日記の前から、

武田家のこと、いろいろ書いてきました。

その中の一つに、シミュレーション小説、

逆転小説というものがあります。

 

 

これは、歴史をやり直すというもので、

あの時、こうしたらよかった。

こうしたら、合戦に負けなかった。

こうすべきだった。

などなど・・・・

歴史の変更はできませんが、

いろんな御霊さんの後悔、反省といった思いを、

文章で、形として出す事で、表現してあげるのです。

 

 

そうすることで、御霊さんが、救われる、

分かってくれたということで、

思いを、消化できます。

新しいやり直した歴史の波動を、

プレゼントできるというわけなのです。

 

 

だから、キクは、今までにも、

驚くぐらい書いています。

一番、最初の作品は、

縁の花 第54号「武田家の天下取り」という

シミュレーション小説でしたが、

19951119日に書いています。

今から12年前になるのです。

 

 

しかも、その後も、縁の花 第163号「武田勝頼天下取り物語」

縁の花 第198号「戦国時代架空戦いえり」

200号「武田信玄天下取り物語」

232号「武田勝頼の復活」

と書いています。

 

 

キクは、大東亜戦争のシミュレーション小説も、

書いてきましたが、

武田家のことも、いろいろ書いていました。

キクの背景にいる御霊さん達が、

キクに訴えて、書かされているのです。

 

 

また、そんなキクに、実は、去年の夏頃から、

ある一つのシミュレーションが、

シナリオが、ずっと離れないでいました。

それが、ずっと、消えないでいたのです。

 

 

だから、今から、キクは、それを書かせて頂きます。

本来なら、武田家を継ぐはずだった、

キクの前世、武田勝頼の兄である、

武田義信公とその守役である、飯富虎昌に、捧げたいと思います。

是非、お読み下さい。

 

 

 

∞「寿桂尼の苦悩」∞

 

永禄九年、1560年、今川義元の母、

寿桂尼は、大きな苦悩に喘いでいました。

 

 

それは、永禄三年、百万石の領地を持って、

天下取りに一番ちかいと思われていた、

東海一の弓取りといわれていた、今川義元が、

桶狭間の戦いで、織田信長に討たれたことが原因でした。

 

 

それで、飛ぶ鳥の勢いだった、今川家は、

一気に、没落の道を、走り始めました。

家臣だった徳川家康は、義元が討たれたと知ると、

三河の岡崎城で、独立を宣言し、

それを、今川家は、防ぐことができました。

 

 

今川義元の跡を継いだ、氏真は、

愚直としてしられていて、

家臣をまとめることができないのか、

今川家の没落を、食い止めることができず、

徳川家に、三河一国を、完全に取られてしまったのです。

 

 

しかも、そんな今川家の没落を見た、

三国同盟の味方だった、武田信玄も、

矛先を南と向け始めました。

義元を討った、織田信長との婚姻を決め、

勝頼の嫁に、織田家の養女を迎えたのです。

 

 

しかし、そんな情勢の変化にも、

寿桂尼は、ちゃんとした手が打てませんでした。

義元がいたら、こんな苦労はしないのに。

軍師の雪斎がいたらと思いますが、

二人は、もういません。

今川家を任せられる、相談相手が、

いなかったのです。

 

 

また、そんな中で、信玄は、いよいよ、

駿河侵攻を、具体的に、目指し始めました。

そんな中で、寿桂尼が、希望を持っていた、

武田信玄の嫡男で、義元の子供を、

妻に貰っている、義信公も、

永禄八年、信玄公の追放を、計画したことが、

露見して、蟄居されてしまいました。

 

 

寿桂尼は、そんな義信公の企てに対して、

信玄追放の策は、難しいと思っていましたが、

失敗を知ると、もう今川家は滅亡すると、

内心、覚悟を決めました。

跡継ぎである義信を、廃嫡してまで、

殺す覚悟までして、信玄が、駿河侵攻を、

決意した以上、もう防げないと思ったのです。

 

 

でも、寿桂尼は、最後まで、

諦めるつもりはありませんでした。

自分の目が黒い内は、絶対に、

今川家の滅亡を防ぐつもりだったのです。

 

 

けれど、その寿桂尼の命も、

もう終ろうとしていました。

今川義元が亡くなった後の

心労が、大きく影響していたのです。

 

 

そして、その中で、寿桂尼が、

夜、病で、布団の中で、寝ていた時です。

今川家の軍師、雪斉や、今川義元に

声をかけて、策を必死に聞こうとしていた時でした。

 

 

一つの奇跡がおきました。

雪斉の御霊が、寿桂尼の前に現れて、

一つの策を教えてくれました。

それは、今川家の歴史を、思い出せということでした。

「今川家を救った、北条早雲の故事を、思い出して下さい」

雪斉の御霊は、側にいる、今川義元の御霊が、

一緒に、現れるとそういったのです。

 

 

∞「武田信玄の苦悩」∞

 

永禄9年、信玄は、大きな苦悩にいました。

西上野の要衝、箕輪城を落とし、

西上野を完全に手に入れて、

甲斐、信濃、西上野を領する

大大名になった武田家が、

次に狙おうとしたのは、

駿河の今川家でした。

 

 

駿河の今川家とは、

同盟を結んでいましたが、

義元の跡を継いだ氏真は、

愚かもので有名です。

信玄は、念願の海を、得るためにも、

今川侵攻を考えていたのです。

 

 

しかし、そんな信玄に、

予想もしない、痛恨なことがおきました。

以前から、駿河侵攻を、反対していた義信が、

昔、自分が、父、信虎を追放したように、

何と、自分を追放することを、計画していたのです。

 

 

でも、そんな義信の企ては、

忍者を使って、家臣の行動を、

監視している信玄のもとで、

簡単に露見しました。

信玄は、謀反の罪で、義信を、

甲斐東光寺に、幽閉すると

未然に防ぐことができたのです。

 

 

だけど、信玄は、その為に、

有能の家臣を亡くしました。

義信の守役だった飯富虎昌は、

そのことが分かっていたのか、

わざと自分が、企てたということで、

すべての責任を被って、

義信を、庇って、処刑されていますし、

義信に仕えていた若手の家臣も、

成敗しているのです。

 

 

しかし、幽霊された義信の気持ちは、

露見した後も、変わりませんでした。

信玄は、反省を求め、義信が、反省したら、

許すつもりでした。

でも、親子の関係は、誰が仲介しようとしても、

戻りませんでした。

信玄は、義信のことを諦めようとしていました。

 

 

何故なら、巨大な領土があるのに、

海がない武田家にとっては、

海は、どうしても手にいれないといけないものでした。

海がないと、貿易ができず、国を豊かにはできなかったのです。

 

 

それに、どちらにしても、今川家は、

三河の徳川家に、早晩、滅ぼされてしまいます。

その前に、自分が、侵攻しても、

それは仕方がないことだ。

信玄は、そう思っていたのです。

 

 

でも、その理屈が、義信には、分かりません。

いえ、もう分かっていると思いますが、

守役の飯富虎昌さんや、

義信衆だった、80騎の家臣を、

成敗してしまった、自分が、許せなかったのです。

 

 

それで、義信は、死のうとしていました。

親である、信玄には、そのことが、よく分かるのです。

しかも、嫡男、義信との亀裂は、

今まで、団結を誇っていた武田家に、

大きな亀裂を生んでいました。

 

 

このままでは、義信の跡を継ぐのは、

諏訪を任せている、諏訪勝頼になりますが、

母親が、諏訪で、甲斐でないことで、

家臣の中では、納得しないものが、

いることも、信玄は分かっていたのです。

 

 

しかも、そんな信玄のもとに、

 

 

しかも、そんな信玄のもとに、

軍師だった、山本勘助の御霊が降りてきて、

義信公の廃嫡を止めていました。

 

 

本来なら、勝頼が、武田家を継ぐのは、

大喜びするはずの勘助が、

必死で、止めていました。

ここで、勝頼が、跡を継いでも、

勝頼の為にならないというのです。

 

 

しかし、その言葉は、

信玄公に衝撃を与えました。

山本勘助は、軍師として、冷静に見ていて、

信玄公は、その助言に、耳を傾けました。

こんな形で、諏訪の血を引く勝頼に、

武田家を継がせても、勝頼は、うまく、

武田家を動かせないことに、気がついたのです。

 

 

 

 ∞「寿桂尼の奇策」∞  

 

寿桂尼から、信玄の元に、

内々の使者が来たのは、

永禄九年の九月頃でした。

 

 

その使者は、今川氏真にも内緒で、

寿桂尼の言葉を伝えに来たのです。

 

 

また、その言葉は、信玄を、本当に驚かせました。

寿桂尼は、自分の娘婿になる、義信に、

遠江の曳馬城と、西遠江10万石を、

与えるというのです。

 

 

これには、信玄も驚きました。

遠江は、25万石なので、10万石といえば、

半国とまではいかないまでも、大きな領地です。

 

 

その上に、西遠江を与えるということは、

武田家は、信濃と西遠江を繋げることができて、

海だけでなく、海からのルートを、

得ることができます。

 

 

駿河に比べたら、西遠江は、不便ですが、

難所の青崩峠を通らないとはいけないとはいえ、

信濃の三州街道、秋葉街道に、

通じることが、できるのです。

だから、この条件は、信玄にとって、

破格な条件だったのです。

 

 

しかし、その反面、それをしたら、

徳川だけでなく、織田家も、敵にしています。

徳川家康とは、織田信長を通して、

今川家を、分割しようという約束が、

できつつあったのです。

 

 

でも、信玄は、その利点よりも、

何もしないで、西遠江、10万石を、

得る利点を考えていました。

 

 

何故なら、これだったら、

東遠江を得ても、相模の北条家を、

敵にすることはありません。

三国同盟は、守られるのです。

 

 

それに、今、美濃を攻めている、

勢いが、盛んな織田家とは、

信長が、いずれ、天下を目指せば、

いずれ、ちかいうちに、戦わないといけません。

信玄は、信長を、昔から認めていて、

その勢力が、手に負えないようになることを、

恐れていたのです。

 

 

だから、信玄は、それを決断しました。

義信が、西遠江を得た後、

自分に逆らうこともあるかもしれませんが、

信玄は、義信は、それをしないと確信していました。

 

 

罪を許されて、東遠江を押さえて、

曳馬城に入った義信が、

すぐに、三河の徳川に、

今川氏真と共に、攻め込むのは確実です。

それを、自分が、後詰してやれば、

三河も、得ることも、難しくないと

冷静に判断していたのです。

 

 

また、寿桂尼は、それが分かっているから、

信玄に、提案して来たのだと思っていました。

曳馬城に、義信を入れるということは、

武田は、今川を、裏切らないという証でもあったのです。

 

 

そして、信玄は、寿桂尼が、今川家を救う為に、

今川家の故事に学んで、この決断をしたことに、

気がつきました。

 

 

昔、今川氏親は、今川家を救ってくれた、

北条早雲に、興国寺城を、褒美として

与えたことがありました。

その北条早雲が、伊豆を支配し、

今の大国になっています。

 

 

義信に、その早雲になれ、

西国は、切り取りしだいにして、

義元の討った、織田信長に、

仕返しをしようとすることを、

決断したことを、理解したのです。

 

 

だから、信玄は、

その寿桂尼の提案に、賛同しました。

義信に、内々で、話して、

承知したら、罪を許し、

武田家の嫡男として、

曳馬城に行かせることを

約束しました。

 

 

どちらにしても、義信を、

武田家の嫡男に、戻すには、

家臣の誰もが納得する手柄が必要ですし、

武田家の為にも、

親としても、

妻の元気を亡くしている

三条婦人の為にも、義信には、生きて欲しかったのです。

 

 

 

 ∞「信玄公と義信公」∞

 

寿桂尼からの使者から、

寿桂尼の奇策を聞いた翌日、

信玄は、内々で、東光寺に、

幽閉された義信に会いました。

 

 

今まで、義信が、あくまでも、

駿河侵攻に反対という立場を、

変えなかったので、

会うこともできなかったのですが、

今は、違います。

 

 

信玄公は、義信と二人きりになると、

駿河侵攻を止め、もう二度と、

義信の妻がいる、今川家に対して、

侵攻をしないことを誓いました。

その上で、訝る義信に、

寿桂尼の提案を、詳しく説明したのです。

 

 

また、その提案に、義信自身、

否応はありませんでした。

義信は、自分のために、

東遠江を与えたくれた、

寿桂尼の提案に、深く感謝したのです。

 

 

その上で、信玄と義信は、

あっさり、親子の関係を修復しました。

今川家侵攻をしないという以上、

二人は、争う必要はありません。

 

 

信玄も、義信も、謀反が発覚した後も、

心の中では、お互いを、許していることは、

よく分かっていたのです。

 

 

しかも、何よりも、

寿桂尼の策を、実施するには、

義信の存在が必要でした。

今川家の為に、謀反を起そうとした、

義信だからこそ、寿桂尼も、

今川氏真も、東遠江を割譲する事に、

同意するのは、明白でした。

これが、他の武田勝頼や、

武田家の家臣では、不可能だったのです。

 

 

だから、義信は、生きる意味も与えられました。

自分は、父、信玄や、武田家の家臣に、

必要とされる存在になったのです。

 

 

しかも、ここで、憎い、

徳川家康、織田信長と堂々と戦い、

嫁の父、義元公を討った、敵を取れますし、

自分が、再び、名誉を回復して、

武田家の嫡男になれば、

恩のある今川家を、守ることになります。

義信は、信玄の命で、

喜んで、曳馬城に入る決心をしました。

 

 

それが、自分を守る為に、

謀反の罪を、一身で、背負ってくれた、

処刑された、守役の飯富虎昌や、

成敗された、義信衆として、自分に仕えてくれた、

多くの若手の有能な家臣に対する、

お詫びだと思ったのです。

 

 

そして、信玄は、そんな義信に、

兄に代わって、飯富の赤備えを任された、

重臣の山県昌景や、側近の真田昌幸を与えると、

二度と、家臣を、無駄死にさせるなあと厳命しました。

その後、簡単な打ち合わせをして、

大いに暴れて来いといって、

東光寺の謹慎を解いたのです。

 

 

出世城 曳馬城

 

武田義信公が、内々で、許されて、

曳馬城に入ったのは、寿桂尼の提案が会ってから、

何と二週間後でした。

 

 

その間に、寿桂尼は、病の中で、

必死に、今川家の当主、氏真を説得しました。

今川家が、生き残るには、その策しかないと、

言い聞かせたのです。

 

 

また、そんな強引な寿桂尼に、

最初は、反発していた、氏真も、

義信が、曳馬城に入ることには、

そんなに抵抗はありませんでした。

西遠江を、10万石も与えることには、

家臣も抵抗するでしょうが、

このままでは、徳川家と武田家に、

挟み撃ちにあって、今川家が、滅亡することは、

氏真にも、よく分かっていました。

当主としては、愚直な氏真には、他に案もなく、

自分が死ぬ前に、今川家の安泰を見届けたい

という寿桂尼に逆らえなかったのです。

 

 

こうして、内密に、氏真を承知させた後の、

寿桂尼と信玄の決断は、敏速でした。

信玄は、今川氏真の使者から

承知の報告を受けると、

すぐに、正式に、義信の謹慎を解くと、

義信に、山県昌景の3千の兵を与え、

東遠江の重要な城、

曳馬城の引き取りを命じました。

もうすぐ、雪が降って、上杉軍が、

邪魔を入らないうちに、

決着つけようとしたのです。

 

 

しかし、その事は、何も知らせて貰えなかった、

武田家の家臣だけでなく、

徳川家康を、驚かせました。

家康は、武田家と組んで、

遠江を支配するつもりでした。

そこに、武田家で謹慎していた、

氏真の妹を、妻にしている義信が、

突然、狙っていた曳馬城に入ったのです。

 

 

その上に、曳馬城に入った、義信を、

今川氏真と寿桂尼は、真っ先に迎えると、

正式に、東遠江の割譲を認めました。

東遠江の家臣は、今川家から、

武田義信の家臣になったのです。

 

 

そして、そんな武田義信、今川氏真は、

すぐに、信濃から、東遠江に入った、

信玄率いる15千の武田軍を待たずに

三河の侵攻を開始すると、

東遠江の吉田城を、囲んだのです。

 

 

しかも、寿桂尼は、そんな今川家、武田家の行動に、

同盟国の北条氏が、警戒するのをおそれ、

駿河の東、昔、北条家が支配していた、

河東部を割譲しました。

それで、北条家も、味方にしました。

5千の兵を、参戦させたのです。

 

 

こうして、三河侵攻は、武田信玄が、15千、

武田義信が、5千、

今川氏真が、7

北条家が、5

という大軍に、あっという間になりました。

合計、32千の大軍が、三河に侵攻したのです。

 

 

また、そんな大軍に、

徳川家康、織田信長は、

東三河で、徳川家に使えた武将は、

武田信玄に寝返りましたし、

東三河の重要な城、吉田城も、

不意を突かれて、すぐに落ちてしまったのです。

 

 

 

∞「徳川家康の苦悩」∞

 

永禄九年十月十五日、三河の徳川家康は、

大きな苦悩にたっていました。

しかし、それは、家康自身、

とても信じられないことでした。

まるで、悪夢を見ている感じだったのです。

 

何故なら、徳川家康は、永禄3年に、

今川義元が、桶狭間に討たれたことで、

やっと、今川家から独立しました。

けれども、その後も、織田家と同盟を果たしたものの、

三河の一向衆との戦いが起きて

苦しい戦が続いていました。

 

 

それが、やっと、三河の統一を果たし、

今川領に、目を向けた時だったのです。

武田家と結んで、遠江を支配することも、

視野に入っていた時だったのです。

 

 

何と、その武田家と今川家が、再び、手を組んで、

武田家、今川家、北条家で、

三河に、3万の大軍で攻めて来たのです。

 

 

しかも、それはまったくの不意打ちで、

東三河の重要な拠点、吉田城は、

武田義信と今川氏真にあっと言う間に、

落ちてしまいましたし、

三河の山手の衆も、

武田信玄の元に、降伏しました。

徳川家康は、東三河、20万石を、

一気に失ったのです。

 

 

だから、そんな徳川家康ができたことは、

3千の兵で、岡崎城に篭城することと、

同盟を結んでいる織田信長に、

援護を求めることぐらいでした。

 

 

徳川家康は、苦労して、

手に入れた独立を手放すつもりはなく、

武田義信から届いた、降伏勧告を拒否すると、

武田家、今川家、北条家と戦うつもりだったのです。

 

 

しかし、その情勢は、厳しかったです。

岡崎城は、十月末には、武田、今川、北条の

連合軍3万の大軍に囲まれ、

まったく動けなかったのです。

 

 

しかも頼りにしていた、

織田信長も、なかなか援軍を出そうとはしませんでした。

織田信長に、とっても、この事はショックでした。

信玄に謀られたと思ったのです。

 

 

何故なら、信玄とは、養女を、

勝頼の正室にするということで、

同盟の関係を結んでいました。

その信玄が、こんな形で、自分と同盟している、

徳川家康を、攻めるとは思わなかったのです。

 

 

その上に、時期も悪かったです。

永禄3年に、今川義元を討ってから、

織田信長は、美濃攻略に、専念していました。

永禄4年から、厳しい戦いをして、

やっと美濃を支配できる寸前まで、

斎藤龍興を追い詰めていました。

斎藤龍興との戦いは、時には大敗することもありましたが、

来年か、再来年には、斎藤家の家臣の裏切りを、

内応できるところまで、来ていたのです。

 

 

しかし、それも、信玄の裏切りで、不可能になりました。

信玄は、武田義信が、曳馬城に入ったのを、見届けると、

斎藤家に、織田家と敵対したことを告げ、

同盟を申し込んでいました。

 

 

その信玄の申し込みで、

斎藤龍興も、勇気づけられて、

再び、勢いを取り返そうとしました。

織田信長に、内応することを考えていた、

斎藤家の家臣も、思いとどまったのです。

 

 

だから、信長は、後、1年あれば、

美濃を取れたのにと、歯軋りしましたが、

どうすることもできませんでした。

美濃を攻略したら、尾張・美濃で、110万石で、

武田家を凌ぐ、大名として、

兵力では互角に戦えるはずでしたが、

今は、尾張一国、13千程度の兵を、

動かす事しかできなかったのです。

 

 

でも、それでは、武田家、今川家、北条家、

3万の大軍に勝てないことは、

信長もよく分かっていました。

弱兵で、有名な尾張の兵では、

たとえ、3万よりも多くても、

とても勝てないと思ったのです。

 

 

その上に、信玄や義信に、

油断する慢心の心はなく、

武田義信の戦意は溢れていました。

これが、今川氏真なら、

勝てる可能性はありましたが、

今川氏真は、今川家の兵の指揮も、

武田義信に任していました。

信長は、敗戦を覚悟していたのです。

 

 

しかし、信長は、徳川家康に、

援護しないわけにはいきませんでした。

もし、援護しなかったら、

徳川家康は、早々と、武田家に降伏するのは、

火を見るよりも明らかです。

織田信長は、助けないわけにはいかなかったのです。

 

 

また、そんな信長が、期待していたのは、

上杉謙信でした。

織田信長は、上杉謙信に使者を送って、

同盟を申し込むと、信濃に、

兵を出してくれることを、求めたのです。

 

 

でも、織田信長は、それが、難しいことも分かっていました。

季節は、もう11月です。

もうすぐ雪が降って、信濃は、雪で、動けなくなります。

上杉謙信に、その気があっても、

兵を出してくれる可能性は、あまりなかったのです。

 

 

 

ですから、織田信長は、謙信が、兵を出せる、

雪解けの3月、4月まで、

徳川家康が、岡崎城で、がんばってくれることを、

期待していましたが、

不意をつかれたことで、

それは難しい状態でした。

信玄、義信も、そのことはよく分かっていたので、

岡崎城に、猛攻撃をしたのです。

 

 

しかも、東三河の豪族も、次々と、降伏していましたし、

岡崎城以外の城は、全部、奪われていました。

武田信玄、武田義信親子は、安祥城で、

待ち構えていたのです。

 

 

 

そして、元禄十年の一月、織田軍と、武田義信、信玄親子は、

尾張国境で、戦になりました。

岡崎城は、落城寸前で、

織田信長は、桶狭間の戦い以来の、

一か八かで、戦を仕掛けたのです。

後に、三河の戦いといわれるものです。

 

 

でも、織田信長は、武田には、とても勝てませんでした。

岡崎城にいる、徳川家康を、救えませんでした。

信玄、義信親子は、岡崎城に、北条軍、今川軍を残して、

武田家単独で戦いましたが、

織田軍13千対、武田信玄15千・武田義信6千という、

武田が、兵力でも有利の戦いだったからです。

 

しかも、上杉とも五分で戦った武田家の兵は、本当に強く、

三河での、前哨戦で、簡単に負けたのです。

それで、織田軍は、すぐに、正面から、武田軍と戦うことに、

恐怖を感じました。

まだ、この時期に、鉄砲は、そんなに多く、

織田軍は、持っていなかったのです。

 

 

結局、それで、織田信長は、武田に、

正面から戦おうとはせずに、

夜襲を仕掛けたりしましたが、

うまくいきませんでした。

それで、失望した岡崎城にいる徳川家康が、降伏すると、

兵を国境まで引いて、国境を固めたのです。

 

 

∞「織田信長の自決」∞

 

岡崎城で、篭城していた徳川家康は、

武田信玄、義信、親子に降伏しました。

これによって、武田家は、三河一国、

三十五万石を手に入れました。

 

 

それで、信玄、義信親子は、

寿桂尼との約束通り、

東遠江、10万石を、今川氏真に、

帰しました。

 

 

三河は、東三河、20万石を

武田義信が治めて、

本城を吉田城に置き、

徳川家康は、武田家の家臣として、

岡崎城を、新たに任されたのです。

 

 

また、徳川家康は、

その後も、武田家に忠誠を尽くして、

大いに活躍してくれました。

徳川家康は、この奇策を考えたのが、

寿桂尼で、信玄が、すぐにそれを、

実行したことを知って、

信玄に、心から尊敬しました。

以後、信玄から、いろんな事を、

学ぶことになるのです。

 

 

また、その後、永禄十年、六月

三河を固めた、信玄、義信親子は、

尾張の織田信長を、討つ為に、

兵を出しました。

 

 

それに対して、上杉謙信が、

信濃に、兵を出す事も考えられましたが、

対策は、万全でした。

川中島の海津城には、高坂弾正が、

武田三千、今川から借りた兵二千、

合計、五千の兵で固めていましたし、

松本城にも、二千、

西上野の、箕輪城にも、三千の兵で、

守りを固めていたのです。

 

 

そして、武田信玄は、残る

信濃、甲斐、西上野の兵、

一万五千の兵で、美濃に侵攻し、

武田義信は、三河の兵、七千と、

今川氏真から任された、五千の兵、

一万二千で、尾張に攻め込んだのです。

 

 

それで、戦は、

そんな武田信玄、義信親子の、

挟み撃ちが、見事に成功して、

さすがの織田信長も、

大きな抵抗もできずに、

負けてしまいました。

 

 

同盟相手の徳川家康を、

守れなかったことで、

信頼をなくしていたのです。

 

 

また、信玄の作戦も見事でした。

信玄は、西美濃を治めている

稲葉山城の斎藤龍興と結んで、

西美濃を、簡単に攻略しました。

この時に、諏訪の兵を率いた、

諏訪勝頼も大活躍しています。

 

 

その上で、美濃を治め、

斎藤軍、五千も加えた、

合計二万五千で、尾張の清須城に攻め込みました。

 

 

しかも、それを待っていた尾張国境で

織田軍を牽制していた武田義信も、

一万二千の兵で、尾張に侵攻したのです。

 

 

だから、さすがの織田信長も、

今度は、桶狭間の戦いにように、

奇襲攻撃はできませんでした。

そんな隙が、武田家、親子にはなかったのです。

それで、織田信長は、清須城で、五千の兵で、

篭城する事にしましたが、

四万の兵で、囲まれてはどうすることもできず、

自分が、自決することで、

清須城の兵の命を守るという条件で、

見事に果てました。

人生五十年を舞いながら、

炎の中で、消えたのです。

 

 

 

∞「その後の武田義信と今川家」∞

 

寿桂尼が、亡くなったのは、

永禄10年の9月でした。

織田信長が、清須城で自決してから、

1ヵ月後でした。

 

 

今川義元が、桶狭間の戦いでなくなった後、

ずっと、今川家、息子の代わりに、支えていた寿桂尼は、

織田信長が、自決したという報告を聞いて、

今川義元の敵が討てたことに、ほっとすると、

今川氏真と、今川家の将来を、

敵を討ってくれた武田義信に、

くれぐれも頼むと亡くなりました。

安眠だったのです。

 

 

また、その後すぐに、武田義信は、

尾張の国の藩主になりました。

永禄1099日でした。

信玄公は、川中島で戦いが起こり、

自分の娘、松が生まれた、

縁起のいい日、菊の節句の日に、

今川家との約束なので、東三河を、

今川家に返した武田義信に、尾張一国を与え、

正式に、二十代目の、正式に

武田家の当主にすると、自らは引退したのです。

 

 

しかし、そうはいっても、

信玄は、隠居しただけで、

実際は、まだまだ武田家を動かしていました。

まだ、しばらくは、武田家の支配者だったのですが、

正式に、当主を、武田義信に譲ったことで、

息子、義信との間に起こった亀裂は、

完全に修復したことを、内外に示したのです。

 

 

そしてその後、永禄11年からは、

武田義信が、総大将としての、

天下統一が、始まりました。

 

 

 

それは、順調でした。

信玄公は、足利義昭が、副将軍にするという

要請があったのを断り、

朝倉家から、美濃の武田家に入りたいのを、

丁寧に断ると、

武田義信に、上洛を命じました。

 

 

それに対して、畿内で、

武田家と、正面から戦うという意志がある、

大名はありませんでした。

 

 

武田家は、甲斐、信濃、西上野だけでなく、

西三河、尾張、美濃を支配しています。

170万石を超える大大名なのです。

しかも、美濃、半国を与えられている斎藤家と、

駿河、遠江、東三河を領している、今川家が、

同盟国としています。

武田義信は、今川軍、斎藤軍も加えた、

5万という大軍で、上洛したので、

畿内の浅井、六角、本願寺、三好も、

越前の朝倉も、逆らおうとはしませんでした。

武田家なら、仕方ないかとなったのです。

 

 

こうして、武田義信の上略は、

簡単に成功しました。

武田義信は、その後、

浅井、朝倉、六角などに、

本領を、安堵すると、家臣に加え、

正式に、足利義昭から、幕府を起す権利を、

譲られると、武田幕府を成立させた後、

中国、四国、九州も攻略しました。

 

中国の毛利氏、四国の長宗我部氏、

九州の島津氏も戦いましたが、

戦に負けると、領地を減らされましたが、

許されました。

 

 

また、上杉謙信とも、信玄公の望みで和解し、

本領の越中、越後を安堵しましたし、

関東の北条氏も、伊豆、相模、武蔵を、

北条本家に与え、残る土地は、

北条一門に、分割することを条件に、

北条家も家臣にしました。

 

 

北条家も、三国同盟を、

命がけで守ろうとした、

義を大事にする武田義信と、

今川氏真の説得に応じたのです。

 

 

こうして天下統一は、天正元年に、実現しました。

最後に残った奥州の伊達氏も、領地を減らされましたが、

許されたのです。

 

 

それは、信玄公が、寿桂尼の提案で、

駿河侵攻を、諦めてから、

7年で、実現したことでした。

信玄は、それに満足して、

この案を提案してくれた

寿桂尼に心から感謝して、

今川家を大切にすることを、

改めて言って、この世を去ったのです。

 

 

それで、今川家は、三河、遠江、駿河だけでなく、

今川義元が治めていた、

尾張の一部、二十万石も与えられて、

百万石の大名として、

それ以後も、武田家の誼の深い、

親族の大名として、栄えたのです。

 

 

 

 

また、そんな武田幕府は、

ずっと、明治維新まで、300年以上、

長く続きましたが、

武田義信の子供には、女子がいても、

男子がいないので、

武田勝頼の息子、信勝を

義信の養子にすると、

武田家の二十一代目の

当主に継がせました。

 

 

 

武田義信は、自分が、武田家の

当主になったことを、心から喜び、

信玄公の弟、信繁公に匹敵するぐらい、

兄である自分を支えてくれた、

武田勝頼の公に報いました。

それで、ずっと気になっていた、

自分が、あのまま、廃嫡していたら、

勝頼が、武田家の当主に、なっていたという

思いを消すことができましたし、

それは、信玄公の遺言でもあったのです。

終り。



縁の花で、ご縁を持たせて頂いた人達の本を、ご紹介しています。
○縁の花書店○ 


○縁の花書店サイト○



縁の花 全号紹介コーナー

縁の花 武田家一年日記サイト

縁の花 武田家・大東亜戦争英霊コーナー

キクの日記

縁の花 トップページに戻る

2011年 縁の花お手紙

すべての読者の皆様に緊急連絡

 

『この縁の花を読んで頂いている皆様へ

緊急連絡です

2010年、12月23日〜26日

金沢済度の旅をした事で

俺は、2011年〜2012年12月23日

俺の50歳の誕生日で

フォトンベルトに突入するとか

マヤ歴の予言でも

人類が滅亡するかもしれないと言う日まで

俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました

 

と言うのも、俺は、1993年10月1日

18年前に、何故縁の花を書き始めたのか

この世で、皆さん、一人、一人と

何を約束したのか

全部、明快に分かったからです

 

しかも、長年探し求めていた

日本や世界、人類を救う方法も

その手段も分かりました

答えは、すべて縁の花の中

皆さんにあったのです

 

だから、俺は、それを

この2年間という短い期間の間に

皆さんに、伝えきるつもりです

皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる

目には、見えない存在を救い切る覚悟です

 

是非、キクの命がけのお願いです

「2011年、縁の花の読者の皆様へ

キクの命がけのお願いの手紙」

をお読み頂きたいと思います』

 

2011年 縁の花のお手紙サイト

http://www.geocities.jp/ennohana/2011ennohana/ennohana1.html