縁の花
(21世紀に咲く智恵の輪)
第318 号
武田家滅亡済度をしました
]∞「2010年3月11日に
武田家滅亡済度させて頂きました」∞
3月10日の東京大空襲済度の翌日は、
これも凄いご縁だと思いますが
戦国時代に、武田信玄公の元で
戦国大名の中で、最強と言われていた
武田家滅亡が、わずか1カ月間で
呆気なく滅亡した日でした
これには、驚いてしまいました
というのも俺自身、まったく覚えていなかったのですが
当日の朝、4時からの済度瞑想が終わった後、
6時50分頃から、いつものように手帳に
その日に起きた歴史的事件を控えようとしたら
3月11日に起きた歴史的事件の中に
「1582年 信長・家康の聯合軍に敗れた武田勝頼が自害し、甲斐武田家が滅亡」
というのがあってびっくりしたのです
何故なら、皆さんの中には、ご存知の人もいると思いますが
俺の前世は、武田勝頼です
これは、俺自身、まったく記憶がなかったのですが
済度の善友、世界一の霊媒師の「あみ」さんに
もう10年以上も前に、教えて頂いたのです
だから、1582年3月11日に、
俺の前世だった、武田勝頼は
甲斐の天目山で、武田勝頼の妻だった
10歳以上も年下だった北条夫人や
嫡男の武田信勝などを含めた
武田家臣40人や、北条夫人の付き人だった女性と共に
亡くなった事になっています
織田信長の家臣である滝川一益の兵に
追い詰められて、
親子で、首を取られているのです
なので、前世の俺にとっては、本当に
大事な日になりますし
俺は、この歴史的事件の
張本人という事になるのです
しかし、俺は、その記憶を今も思い出せません
いろんな不思議な事があって、
甲斐や川中島に行ったりして
武田家済度させて頂いてきましたが
前世の記憶は、結局何も思い出す事ができなかったのです
しかも、以前、武田勝頼土佐生存説を
皆さんにご紹介した事がありましたが
実は、天目山で亡くなった武田勝頼は影武者で
本当の勝頼は、生きていて、夫人や子供や
一部の武田家臣達と、土佐に逃れて
大崎玄蕃という名前で、生きていたという説もあります
武田勝頼が、この日、歴史的に織田信長の兵に討たれたと言う
歴史的事実があっても、それが本当か、どうか
その真相は分からないのです
でも、一つだけ間違いなく言える事はあります
それは、この日に、400年以上も続いた
甲斐の守護大名として栄え
父、信玄公の時代には
日本最強と他国にも恐れられた
戦国大名に見事に変貌した
武田家は、本当に呆気なく
滅亡してしまったという事です
しかも武田家が滅亡した事で
多くの武田家臣団は、信玄公に恨みを持つ
織田信長の武田家狩りによって
多くの武田家臣は、殺されました
多くの家臣の命が亡くなったのです
だから武田勝頼は、天目山で生きていたとしても
討たれたとしても、大きな業を背負った事になります
40代続いた名門武田家を勝頼の代で、滅亡させたというのは
ずっと前世の過去としてツイテくる事になるのです
その上に、武田勝頼自体の歴史的評価も
ずっと高くはありませんでした
どちらかと言ったら、駄目な二代目だと思われていました
「アンポンタン」な大将だと思われていたのです
なので、俺は、武田勝頼は
武田家の家臣に恨まれたとしても
仕方ないと思います
特に、有名な長篠の戦では
織田、徳川連合軍に、兵力が圧倒的に劣るのに
武田家の力を過信して
家臣が反対したのに
戦を仕掛け、大敗をして
信玄公が育てた、優秀な家臣を
たった一度の戦で、殺してしまうという
取り返しのつかない事をしています
武田勝頼が、悪いと言われても仕方ないのです
だから武田勝頼は、今の歴史では
ある程度評価されていますが
やはり、武田家の家臣の御霊の中には
武田勝頼を恨んでいる御霊も多いと思います
武田勝頼が、跡継ぎでなかったら
武田家は滅亡しなかったと思っている御霊はいるのです
その上に、武田勝頼は、織田信長、徳川家康に対抗する為に
民を苦しめました
これは、信玄公の代で、活溌した金山が枯渇して
財政的にも苦しかった事も大きな原因です
そんな中で、武田勝頼は、運がなくて
強大化した織田家と対抗しないとなりませんでした
どうしても、税は重くしないといけません
なので、武田勝頼は、甲斐、信濃の領民にも恨まれていたと思います
信玄公に比べたら、名君にはなれなかったのです
ですから、本来なら、本人に記憶があろうが、なかろうが
俺が、武田家が滅亡した事に対して
武田家の御霊達を、供養する、成仏させる
武田家滅亡済度をする事は大変な事です
いえ、中途半端な気持ちでしては
絶対にいけない事です
それをしたら、俺は、本来なら
武田家の御霊達に、殺されても仕方ないのです
でも俺は、それを知ると
きっと、霊達に詳しい、プロの人なら
考えられない無謀な事
恐ろしい事だと思いますが
3月11日は、武田家滅亡済度をさせて頂くと
すぐに決心して
その日は、武田家滅亡済度をさせて頂きました
武田家の御霊達を供養させて頂いたのです
そんな恐ろしい事を、俺は、平然とさせて頂いたのです
∞「武田家の御霊達と
一体となって憧れます」∞
前号、525号「2010年3月11日に
武田家滅亡済度させて頂きました」で
俺は、武田家滅亡済度を
心から喜びでさせて頂いた事を書きました
きっと、霊媒師や陰陽師の人なら
そんな無謀な事はしてはいけないと
絶対に忠告すると思いますが
霊に関しては、まったくの素人の俺が
平然とさせて頂いたのです
しかも、俺が、させて頂いた武田家滅亡済度は
武田家の本領、甲斐とは縁のない大坂で
普段の生活の中で、させて頂くものです
別に、何か特別な衣装を着るとか
何かの祝詞をあげるという事もなく
普段の俺の済度と別に変わりませんでした
ただ、俺は、いつもなら那由他桁の御霊達を意識するものを
時々、すべて武田家の御霊達を意識する事で
すべての武田家の御霊達と一体となった事をイメージする事で
河内・泉州お仕事済度や
黒鳥山公園済度、食事済度をして
武田家滅亡済度をさせて頂いたのです
また俺は、3月11日は、
一日中、自分が、武田勝頼だと自覚して
いろんな武田家の家臣団に
心の中で、呼びかけていました
というのも、武田勝頼には、信玄公が残してくれた
優秀な家臣や、戦に強い兵がいました
それを、武田勝頼は、愚かにも生かす事ができず
無駄死にさせています
たくさんの家臣に、謝らないといけない
懺悔しないといけない事をしているのです
それが、長篠の戦で亡くなった、武田家四重臣の中の三人
山県昌景や馬場信春、内藤昌豊の御霊や
武田家の将来を憂いて、最後まで諫言してくれた
甲陽軍鑑の作者でもあった高坂弾正の御霊
武田家の軍師だった山本勘介の御霊
長篠の戦でなくなった、まだ若く将来有望だった
真田家の真田信綱、真田昌輝兄弟の御霊達
・・・・・・などです
だから俺は、そんな家臣の名前を心で唱えたり
長篠の戦で亡くなった兵達の御霊
高天神城の攻防で亡くなった
岡部元信と城兵達の御霊
高遠城で最後まで武田家の為に戦い全滅した
勝頼の弟、仁科盛信や諏訪家の兵達の御霊の事を
心の中で、呼びかけていました
その上で、そんな武田家の御霊と
何をする時も、常にずっと一緒で
一緒に、一緒に生きている事を
イメージしていたのです
いえ、常に見られている事を意識して
見ていてねと、心の中でお願いしたのです
それが、俺の責任の取り方ですと言ったのです
ですからそんな俺に、まったくの恐怖心はありませんでした
俺は、武田家の御霊が、例え、俺を恨んでいても
少しも怖くなかったのです
何故なら、俺は、今、どんなに武田家の御霊達が
俺を憎んでいたとしても
そんな恨みや怒りもすべて、超越する言葉を知っているからです
それが、「すべての武田家の御霊達と、一体となって
●●を憧れます」と言う言葉です
俺は、この言葉を、時々唱える事で
すべての武田家の御霊達の恨みや怒りは
最後は、感謝に変わる事を信じているので
俺は、武田家滅亡済度を平然とさせて頂けたのです
そんな究極の言葉、究極のご縁があるから
俺は、自然体でする事ができるのです
本当に、済度の先生、河内晢先生には
感謝しています
と言うのも、どんなに武田勝頼に恨みを持っていても
武田家の御霊達も、最終的に俺に求めているのは
恨みを晴らす事ではありません
そんな恨みを晴らしても、何にもならない事は
武田家の御霊達も、よく分かっているのです
だから、武田家の御霊達が俺に求めているのは
俺に、530年前の事で懺悔して欲しいとか
俺に仕返しをして苦しんで欲しいと言う事ではありません
もっと本当にすごい魂の目的があるのです
また、それは、御霊だったら、どんな御霊でも
魂なら、どんな魂でも
最終的には、絶対にしたい事
これをしたい為に、御霊になって
この世を留まったと言う事でもあります
そんな究極な事
●●に憧れる事なのです
ですから、俺は、それをさせて頂いているので
どんな武田家の御霊達も怖くないです
だって、すべての武田家の御霊が
その事に憧れている段階になっていなくて
俺に、恨んでいる霊達がいても
最終的に、必ず、感謝して
俺と一緒に、その事をするからです
それが、済度のだいご味で
魂の約束なのです
そしてそんな俺にとって、やはり黒鳥山公園は聖地でした
ここで、武田家滅亡済度をしている時に
二つ、不思議な事が起きたからです
というのも、その一つは、俺は、3月11日の日
黒鳥山公園に着いた時に、春を感じる事ができました
今までなら、仕事が終わった後
黒鳥山公園で急いで、駆けつけても
冬なので、暗くなっていたのですが
この日、初めてまだ明るい黒鳥山公園に入る事ができたからです
ただ、これは、正直言えば
急に、明るくなる時間が早くなる訳がないので
俺の気のせいだと思います
でも俺は、それでも、この日に、初めて春を感じました
ものすごく、嬉しくなったのです
だから俺は、これは
武田家の御霊達のプレゼントだと思っています
武田家の御霊は、俺に爽快さをプレゼントしてくれたのです
また、もう一つは、俺が、済度をする為に
公園のベンチ、椅子に座った時に
一つは、メール
一つは、携帯に電話があった事です
それも俺が、座った瞬間にあったのです
その上に、メールは、俺が食事済度をしようとしている時で
前世、武田勝頼の妻で、来世も一緒になる事を誓い合っているという
言い伝えがある北条夫人ではないかと思っているすてきな女性からでした
そんな人からメール頂けて、とても嬉しかったのです
でも、その反面、次に、霊言を読もうとした時は
あまり嬉しくない携帯電話でした
内容は、控えますが
一言で言って、怒りのメールで
さすがに落ち込みました
それで、気力を亡くして
実は、黒鳥山公園済度は、途中で終わりました
霊言を読む気がしなくなって
俺は、帰る事になったからです
でも俺は、それでも今回の武田家滅亡済度は
成功したと確信しています
というのも、最後に大きな爆弾が落ちたのは
まだまだ武田家滅亡済度は、終わっていないよ
武田家の御霊は、救われていないよと
言う事を教えてくれたのであって
武田家滅亡済度自体は成功した
ある程度の武田家の御霊は、
救われたと信じているからです
ですから俺は、来年の3月11日に関しては
ちゃんと、覚えていて
前もって準備をして
武田家滅亡済度の事を本気でしたいと思っています
是非、それを楽しみにして頂けたら幸せです
∞「2010年3月10日
鶴岡八幡宮の樹齢千年の
大銀杏が倒れました」∞
2010年3月11日に、武田家滅亡済度をした事で
毎年、3月11日は、武田滅亡済度の日として
俺は、その日は、前世武田勝頼になる事で
大坂の地でも、どこにいても
武田家の御霊達と一体になる事で
武田家の家臣や、武田家の為に亡くなった家臣を
済度、成仏、供養させて頂く事にした事は
前号で、報告させて頂きました
是非、ガンバッテやりたいと思います
また、そんな俺に、実は、3月11日、新たな大きなご縁というか
霊界からのメッセージがありました
それは、皆さんも、ニュースを見てご存知だと思いますが
「鶴岡八幡宮 大銀杏倒れる 樹齢千年、実朝暗殺の舞台」と言うものです
これは新聞記事によると
「10日午前4時40分ごろ
神奈川県鎌倉市雪ノ下の鶴岡八幡宮(吉田茂穂宮司)の本殿前にある
県指定天然記念物「大(おお)銀杏(いちょう)」が
根元付近から折れて倒れているのを警備員が見つけた」と言うものです
しかもその記事によれば
「9日夕から続いた強風が原因とみられる。けが人はなかった。
同八幡宮関係者は「あり得ないことだ」とぼうぜんとしている」
「八幡宮によると、大銀杏は幹回り6.8メートル
高さ約30メートルで樹齢は1000年とされる。」
「八幡宮では09年末から保全に向けた検討を始め、
浜野教授が診断したが、生育に問題はなかった」
「八幡宮側は「吉田宮司はコメントを出せる状況ではない」と話し
午前5時に駆け付けたという神職も
「あり得ないことだ。驚いている」と動揺を隠さない
倒れた大銀杏に米をまいたり、酒を供える神職もいた」
「大銀杏は、同八幡宮のシンボル的存在で
1219(建保7)年1月、鎌倉幕府三代将軍、
源実朝が僧侶の公暁(くぎょう)に暗殺された際
公暁が潜んでいた「隠れ銀杏」とも呼ばれる。
1955年に県の天然記念物に指定された」
とあります
鶴岡八幡宮にとっては、大きな事件
有り得ない事が、起こった事は
皆さんも、よく分かって頂けたと思うのです
また、この事件は、実は、武田家の御霊にとっても
大きな事件でもあります
というのも、武田氏は、甲斐源氏です
甲斐国に土着した清和源氏の河内源氏系一門で
源義光(新羅三郎義光)を祖とするのです
だから、武田氏は、源氏の由緒ある家になります
徳川家などの後で、改ざんした多くの偽物の大名ではなく
本当の血筋になるのです
しかもそんな武田家にとっても
鶴岡八幡宮は、特別な神社になります
何故なら、鶴岡八幡宮の歴史は
康平6年(1063年)8月に河内国(大阪府羽曳野市)を
本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が
京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を
鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に
鶴岡若宮として勧請したのが始まりで
永保元年(1081年)2月には河内源氏3代目の源義家
(八幡太郎義家)が修復を加え
治承4年(1180年)10月、平氏打倒の兵を挙げ
鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝が、
12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷した神社だからです
なので、鶴岡八幡宮は、源氏だけでなく
源氏の家系がある一族にとっては
本当に大切な神社になるのです
氏神になる、八幡大菩薩を奉っている所なのです
ですからそんな鶴岡八幡宮のシンボルだった
樹齢、千年の大銀杏が突然倒れた事は
俺は、霊界からの大きなメッセージ
何か、大きなサインだと確信しています
だって、源氏と平氏は、武士の発祥の家で
その源氏を象徴する鶴岡八幡宮の樹齢が倒れたという事は
源氏の御霊、武士の御霊、戦いの御霊からの
大きな訴えだと考えられるからです
しかも、この大銀杏は、隠れ銀杏という別名があって
鎌倉幕府第三代征夷大将軍である源実朝が
鶴岡八幡宮で、御家人達に追放された
兄である頼家の子公暁に襲われ落命した時に
公暁が、杏の木に隠れて待ち伏せ、源実朝を殺害したという伝説があります
その上に、この事件には、母親の北条政子の実家北条氏の陰謀があって
公暁は、唆されたにすぎないと言います
それで、源実朝には、子はおらず、源氏の将軍は実朝で絶えています
後は、北条氏が執権となって、日本を支配したのです
源氏は、滅亡したのです
ですから、俺には、源氏の御霊、武士の御霊、戦い御霊
何よりも、霊界が、この事で何をメッセージとして伝えたいのかは
分かりませんが、とても大きな事だと判断しています
このままなら、人類は大変な事になるよ
そういったメッセージだとしても不思議ではないと思うのです
でもそれだけでなく、実は、そんなメッセージは
日本人である皆さんだけでなく
俺にも強烈にあったと俺は確信しています
何故なら、俺が、樹齢千年の大銀杏が倒れたという事を知ったのは
翌日の3月11日の朝のニュースだったからです
天目山で武田勝頼が、親子共々討たれた日
武田家が滅亡した11日に、俺は知ったのです
なので、俺にとっては、大銀杏が倒れたのは10日ではありません
11日の日なのです
だから俺は、そのニュースを聞いて
正直に言えば、これは、霊界からの俺に対するメッセージだと
本気で思っています
これは、本当に、戦いの済度を真剣にしなさい
武田家済度を、本気でしなさい
でないと、本当に人類は、滅亡しますよ
世界中の誰でもありません
済度人、キクの俺に、そう霊界が言っていると直感したのです
ですから俺が、11日の朝
3月11日に、武田家滅亡したのを知って
すぐに、武田家滅亡済度を遣ろうと決心したのは
この鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れたというニュースを
知った事も大きかったです
俺は、それで即断で決心したのです
霊界に動かされたのです
なので、来年の3月11日の武田家滅亡済度は
武田家だけでなく、武田家を含めた
源氏の済度もしたいと思っています
武田家と同じように、滅んだ源氏
や平氏の多くの大名も
済度したいと思うのです
是非、そんな済度に関心のある人はメール下さい
それぞれの土地で、一人でも、多くの皆さんと
一緒に願いたいと思います
待っていますよ
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『この縁の花を読んで頂いている皆様へ
緊急連絡です
2010年、12月23日〜26日
金沢済度の旅をした事で
俺は、2011年〜2012年12月23日
俺の50歳の誕生日で
フォトンベルトに突入するとか
マヤ歴の予言でも
人類が滅亡するかもしれないと言う日まで
俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました
と言うのも、俺は、1993年10月1日
18年前に、何故縁の花を書き始めたのか
この世で、皆さん、一人、一人と
何を約束したのか
全部、明快に分かったからです
しかも、長年探し求めていた
日本や世界、人類を救う方法も
その手段も分かりました
答えは、すべて縁の花の中
皆さんにあったのです
だから、俺は、それを
この2年間という短い期間の間に
皆さんに、伝えきるつもりです
皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる
目には、見えない存在を救い切る覚悟です
是非、キクの命がけのお願いです
「2011年、縁の花の読者の皆様へ
キクの命がけのお願いの手紙」
をお読み頂きたいと思います』
2011年 縁の花のお手紙サイト
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