縁の花
(21世紀に咲く智恵の輪)
第330号
武田勝頼 長篠の戦済度
∞「5月16日〜21日は
長篠の戦で戦死した
武田家臣団を慰霊する日です」∞
1575年5月21日は、長篠の戦が起きた日です
新暦、今の暦で言えば1575年6月29日に
織田軍・徳川軍3万8千人(諸説あり)と、
武田軍1万7千人が(諸説あり)が
三河・長篠の設楽原で戦い
武田軍は、10,000〜12,000(諸説あり)もの
戦死者を出すと言う大敗しました
戦国時代最強と恐れられていた武田家は
歴史的な大敗をしたのです
しかも武田家は、信玄公が育てた武田家4重臣の中の3名
山県昌景、内藤昌豊、馬場信春から始まって
真田信綱、真田昌輝兄弟、武田信実、土屋昌次、原昌胤、三枝守友・・など
名前が残っている家臣だけでも26名を戦死させました
長篠の大敗は、武田家が滅亡する大きな理由の一つで
後の武田家は、多くの有能な家臣を亡くすことで
人材不足を招く事になったのです
またこの長篠の戦は、歴史としては
織田家、徳川家と言う戦国時代の新しい大名と
甲斐の守護大名として、400年の伝統がある名門の大名の戦いで
織田軍の持っていた鉄砲3千と柵を使った新戦術に
武田家の従来の旧来の戦法、実際は、武田家の騎馬隊は
存在しなかったのですが、それが敗れたという事で、有名な戦です
歴史の教科書にも載っている戦なのです
しかし、残念ながら記憶はありませんが
前世の武田勝頼である俺にとっては、単なる歴史ではありません
長篠の戦は、俺にとっては、記憶はありませんが
それでもせつない事なのです
何故なら、長篠の戦の大敗の理由は
いくつかあります
まだ、はっきりとは分かっていない事も多いですが
武田勝頼に最大の責任がある事は間違いないです
前世の俺が、一番悪いのです
信玄公に比べたら、駄目な二代目と罵られても
一言もないのです
だから俺自身、長篠の戦となると
もう済まない気持ちで一杯になります
残念ながらご縁がなくて
まだ武田家の御霊達のお許しがないのか
甲斐や川中島にように行って、供養、済度させて頂けませんが
いつか必ず、ご縁ができたら、長篠の戦場に行かせて頂いて
武田家の済度をさせて頂きたいと思います
またそんな俺ですが
実は、今年、2010年5月16日〜5月21日は
長篠の戦で戦死した武田家臣団を慰霊する日として
武田家済度させて頂いていました
大阪の和泉市の黒鳥山公園や俺の菊邸で
長篠の戦で亡くなった御霊達の事を願わせて頂いていたのです
というのも、俺がそれを始めようとしたのは
5月16日に起きたある事件が原因でした
その事件があったから
俺は、五日間も掛けて
長篠の戦済度しようと思ったのです
是非、それを皆さんにご紹介したいと思います
何故なら忘れもしません
5月16日、俺は自宅で
早朝の作業として、今日は何の日で
5月16日の記念日や起きた歴史を手帳に筆記して
ツイッターに、一つだけ一番ご縁を感じたものを
載せようとしましたが
それがなかなかありませんでした
5月16日の記念日は、旅の日、高額納税者発表の日
歴史的事件としては、
1571年 織田信長が伊勢長島一向一揆の拠点・願証寺を攻撃
氏家卜全ら多くの戦死者を出し敗退
1944年 北海道三菱美唄炭鉱でガス爆発。死者109人
1968年 十勝沖地震により青森県の南部鉄道(尻内〜五戸12.3km)が休止
翌年4月1日に廃止
などいろんな事があるのですが
俺が、何か特別のご縁を感じたものはなかったのです
それで、■ 誕生日 ■、■ 忌日 ■と調べていて
■ 忌日 ■の所で
1575年[435年前] 鳥居強右衞門(武士)<数え36歳> 長篠の戦いで捕えられ磔殺
という情報があったので
俺は、そこで固まってしまったのです
∞「勇者鳥居強右衞門と
子供達の罵倒事件」∞
何故ならこの鳥居強右衞門とは、長篠城の城兵で
武田軍によって兵糧蔵を落とされたことで
数日以内に援軍が来なければ落城必至という状況に追い詰められた
長篠城の現状を説明する為に
城主の奥平貞昌の命令で、単身で城から抜け出して
岡崎城の家康に後詰を要請した勇者でした
しかも鳥居強右衞門は、援軍が来ることを伝えるべく即日
長篠城に向いましたが、武田軍に捕らえられてしまいました
その時に、武田方は城兵の士気を挫くべく
武田勝頼は「援軍は来ない」と伝えれば助命すると提案し
これを鳥居は承諾したのです
でも、鳥居は直前で約定を反故にし「援軍は数日以内に来る」と
伝えて城の士気を高めたため、処刑されたという逸話が残っています
武田勝頼は、そんな鳥居強右衞門の勇気を認めて
処刑はしたくなかったみたいですが
そうもいかなくて磔にしたのです
だから鳥居強右衞門の処刑された日は
俺にとっては、特別な日でした
そうか、もうすぐ長篠の戦が起きるのだと思い
5月16日は、勇者鳥居強右衞門が亡くなった日と言う事で
済度させて頂こうと思いました
黒鳥山公園でも、前世、鳥居強右衞門の事を願って
済度させて頂いたのです
しかしそれが終わった後、帰ろうとしたら
俺は、四、五人の子供達に、突然罵倒されました
「おっさん、突然止まるな、危ないではないか」
そうおっさんとか、お前呼ばわりされたのです
というのも2010年5月16日は、日曜日と言う事もあって
親子や多くの子供達が、野球などをしたりして
たくさん遊んでいましたが
何か、理由はよく分かりませんが
突然、止まって見ていた事が、気に入らなかったみたいです
しかもそんな子供の言う事を無視していたら
「タイマンでやろうか」など
1対1の喧嘩・殴り合いの勝負を求められたのです
これには、びっくりです
少し怖かったです
だけど、まさか子供、小学生か、中学生と喧嘩する訳にいきません
喧嘩しても、損するのは俺自身です
それで、無視して自転車に乗ったら
何と追い掛けてきて
「禿げとか、頭の天辺が禿げている」など
散々な事を言われました
こんな事は、黒鳥山公園で言われたのは初めてです
散々な一日で、ものすごく悲しかったです
正直当たっているだけに頭にも来ていたのです
でも翌日、よく考えたら
この子供達が俺に言ったのではなくて
武田家の御霊達が、子供達に憑いて
言わせた言葉ではないか
そう気づかせて頂きました
武田家の御霊達が、俺に何かのメッセージを
伝えようとしたと思いました
そうしたらどんなに罵倒されても
すべて感謝、ありがとうございますに
俺の気持ちは変わりました
前世、武田勝頼として
信玄公が育てた多くの家臣を
無駄死にさせてしまったのです
どんなに罵倒されても仕方ないです
それで、俺は、5月16日、鳥居強右衞門処刑された日から
長篠の戦が起きた5月21日までは
長篠の戦で戦死した武田家臣団を慰霊する日として
毎年、祈らせて頂く事にしました
しっかり願わせて頂きたいと思います
∞「長篠の合戦の真実」∞
1575年5月21日に三河・長篠の設楽原で
織田軍・徳川軍と武田軍が戦い
武田軍は大敗しました
武田勝頼にはとっては、痛恨の敗戦でした
多くの有能な家臣を亡くし
取り返しのつかない事態になったのです
またこの長篠の戦について
長い間、つい最近まで約400年間
ずっと武田勝頼は非難され続けてきました
武田勝頼は、信玄を支えた有能な家臣
老獪な山県昌景や馬場信春などの反対意見に対して
頑固に、自分の意見を曲げず
織田軍、徳川軍に対して、無謀にも突撃を命じて
柵に待ち構えている3千もの鉄砲の一斉射撃を受けて
武田軍を滅亡させてしまった
織田、徳川軍は、殆ど被害がないのに
武田軍は、一万人以上の戦死者を出した
歴史でも例が無いワンサイドゲームになってしまった
武田勝頼は、思慮が足りない、猪突猛進の猪武者
信玄公とは比較にならない「アンポンタン」な大将で
会社や家を潰す駄目な二代目だとずっと言われ続けていたのです
でもそんな武田勝頼は、今は見直されています
武田勝頼は、長篠の戦の後も、7年間
織田信長、徳川家康から、武田家を守りました
その武田勝頼の行動や、長篠の戦の前の武田活動の事をいろいろ調べて
武田勝頼は、ずっとイメージされていた思慮のない大将ではなかった
むしろ、優れた武将ではなかったかと
今はそう考えられているのです
しかしそんな武田勝頼が
何故、長篠の戦であんなに大敗をしたのかと言う事は
長い間、謎でした
いえ、今も謎です
何故、武田勝頼は、兵力が2倍以上もあった織田軍、徳川軍が
柵を作って待ち構えている陣地に
軍を突入させたのか
そのはっきりとした理由は分からないのです
でも、いろんな説が、今考えられています
例えば、武田勝頼は、まさか織田軍、徳川軍が、
柵と鉄砲を使う戦術で待ち構えているとは思わず
内心、織田軍、徳川軍を侮っていて
武田家の武力に過信していて、武田軍が迫ったら
織田軍、徳川軍は恐れをなして引くと思ってので
長篠の設楽原に、軍を向けたら
織田信長は、徳川家康は、
酒井忠次率いる東三河衆の他、
織田軍・金森長近などの与力合計三千人に
長篠城包囲の要であった
鳶ヶ巣山砦を後方より強襲させ
それに成功した事で
長篠城を包囲していた軍も
長篠城から打って出た奥平軍を加えた酒井奇襲隊によって
蹴散らされてしまった
これによって武田軍は、退路を脅かされることになって
仕方なく、前面にある織田軍、徳川軍に
強襲して柵を突破しようとしましたが
織田軍、徳川軍は、鉄砲隊で待ち構えていて
早朝から、昼過ぎまで続いた(約8時間)戦いの後
善戦していた武田軍は疲れてしまって
大軍の織田軍、徳川軍に敗れてしまったと言うのです
しかし俺は、この説には納得できません
前世の記憶がないので、何ともいえませんが
武田勝頼は、それほど愚かと思います
後方の長篠城を落としていないのに
2倍の兵力がある織田軍、徳川軍の前に
武田軍を向けるような
不利な事をするだろうか
例え、織田軍が、徳川軍か撤退するという情報が
入ってといたとしても
それでも、武田勝頼がするとは思えないのです
だって、織田信長は桶狭間の戦いで、今川義元を倒し
姉川戦でも、浅井軍、朝倉軍にも勝っています
織田信長は、天才的な武将だと言う事は、誰でもよく分かっているのです
その上に、徳川家康も、三方が原の戦で、武田家に敗れたといっても
強い事は、武田勝頼もよく分かっています
そんな織田信長との最初の戦に
武田勝頼に軽率な所があったとしても
そんな無謀な事をするだろうか
慎重に戦に望もうとすると思うのです
だから、この事に関しては
いろんな事を考えられてきました
作家の新田次郎先生は、小説「武田勝頼」の中で
織田家の重臣の一人、佐久間信盛が、信長の命令で
武田軍に寝返ると謀って
それで、それを疑いながらも信じた武田勝頼は
まさか、大掛かりな柵の陣地を作っているとは思わないで
織田信長、徳川家康との決戦を覚悟して戦いましたが
期待した佐久間信盛は裏切らなかった為に
敗れたというのです
でも俺は、この説も疑問です
さすがは、尊敬する新田次郎先生と思いますし
その後、佐久間信盛親子は、突然に
大坂城の本願寺を一向に責めなかったという事で
追放処分を受けると言う
口封じかなと思えるような事など
怪しい事もあるのですが
されでも違うような気もします
分からないというのが本音なのです
また、そんな俺が、今、有力だと思う説は
長篠の戦は、21日に始まったのではなく
その二、三日前からは始まっていた
織田軍、徳川軍は、武田軍には
柵の陣地がよく見えないように作った後
ある程度の部隊を、1万程度を柵から出して
武田軍がいる長篠城の方まで
軍を向けさせて
小競(り)合いではない本格的な戦があって
武田家が優勢だったと言う説です
この時に、織田軍、徳川軍は
長篠の戦で受けたと言われている6千の損害の内
少なくても千人から二千人の損害と言う
大きな打撃を受けたのではないか
俺には、そうとしか考えられないのです
それで武田勝頼は、この勝ち戦に対して
織田軍が思っていたように
弱いという事で自信を持って
撤退する織田軍、徳川軍を逃さずに
そのまま長篠の設楽原にいる
織田軍、徳川軍に討ちいろうとして
武田全軍を設楽原に向けたと言うのです
これなら納得です
しかしこれは織田信長が考えた謀略でした
最初の戦は、武田軍を柵まで引き付ける罠だったのです
武田勝頼は、織田軍、徳川軍が
そんな大がかりな柵と大量の鉄砲を用意して
待ち構えているとは思わずに
織田軍、徳川軍に勝てると思って
連悟川の陣地まで接近してしまったのです
まさしく織田信長恐るべしだと思います
∞「長篠の合戦済度」∞
前回の556号「長篠の合戦の真実」で
俺が信じている長篠の戦の真相について書かせて頂きました
いろんな説はありますが、俺は長篠の合戦は
5月21日ではなく、その前哨戦は
19日から20日にあったと思っています
そこで勝利した事で、余勢を駆って
武田勝頼は、織田信長軍、徳川家康にいる
長篠の設楽原にいる所まで
武田軍を向けました
徳川軍は強くても、噂通り織田軍は弱く
織田軍を破ったら、この戦には勝てると思ったのです
武田勝頼としても、どんどん勢力が大きくなっている織田軍は脅威で
ここで、破っておきたかったのです
だから、まさか、前哨戦で戦った部隊は、織田信長の罠で
織田信長が勝てない事を承知しながらも
武田軍を長篠の設楽原まで引き寄せる策だった
多くの兵を捨て石にしているとは考えていませんでした
老獪な武田家臣の山県昌景、馬場信春さえ見抜く事ができず
進軍に対して反対はしなかったと思うのです
しかしそれは罠でした
武田軍は、21日の早朝
長篠の設楽原で、大掛かりな柵
長い柵の陣地を見て、悟ったのです
でもその時には手遅れでした
柵に気がついて、武田軍は
後方に下がろうとしましたが
そうはさせまいと、織田軍、徳川軍は
柵から出て、迫ってきたからです
戦が始まったのです
だから、長篠の戦で、騎馬軍団の武田軍が
柵から3千丁の鉄砲で待ち構えている
織田軍、徳川軍に向って突進したというのは違います
戦は、柵の外で始まったのです
しかも、そんな武田軍に
酒井忠次率いる東三河衆の他、織田軍・金森長近などの与力3千が
長篠城包囲の要であった鳶ヶ巣山砦を
後方より強襲しようとしているという驚くべき情報が入りました
武田勝頼は、それを酒井忠次が鳶ヶ巣山砦を攻める前に知りましたが
長篠城から離れて、長篠の設楽原に向っている為に
どうする事もできませんでした
簡単に援軍を送る事ができなかったのです
だけどそれも、長篠の設楽原で合戦が始まらなかったら
何とかできました
慌てて、全軍を長篠城に向けて撤退したらよかったからです
鳶ヶ巣山砦にいる武田信実(河窪 信実)や
他の支砦4つを守っている三枝守友を助ける事はできなくても
長篠城を攻撃しようした酒井忠次の部隊を
鳶ヶ巣山砦から今度は追い出して
後方を守る事ができたからです
そうしたら武田軍は、こんなに大敗する事はありませんでした
後は、織田信長の恐ろしさがよく分かった武田勝頼は
長篠城を放棄して、徹底しても良かったですし
長篠城の囲みを解かずに、長篠城を落とすと
国内に引き上げても良かったです
そうしたら何とか戦の目的を果たす事ができたのです
でも、長篠の設楽原で戦が始まった事で
武田勝頼は、武田軍を引かせる事はできませんでした
戦を中止する事はできなかったのです
しかもそんな武田軍にとって
後方の酒井忠次率いる軍によって
鳶ヶ巣山砦だけでなく、長篠城を抑えられた事は大きかったです
武田軍は、挟み撃ちになります
何としても、長篠の設楽原の柵を突破して
織田軍、徳川軍を破る必要があったのです
けれどそれは、最強の武田軍でも
不可能に近かったです
織田軍、徳川軍は、2倍の兵力ですし
柵で守られています
最初は押していて
四千から五千もの損害を与えて
織田軍、徳川軍を柵まで押し返した武田軍は
そこで柵から守られている織田軍、徳川軍を
攻撃する事に苦戦して、やがて疲れて
織田、徳川軍の総反撃を受けたのです
しかもそんな武田勝頼に対して、大きな誤算だったのは
中央部隊の親類衆(特に重鎮。叔父・武田信廉、
従兄弟・穴山信君、武田信豊)の
早期退却による中央部の戦線崩壊でした
これで武田軍は、全線で崩壊したのです
でもこの中央部隊が崩壊せず、夕方まで頑張っていたら
暗くなって、戦ができなくなった時点で
武田勝頼は、兵をまとめて撤退する事もできました
その時には、暗くなっても追撃する
織田軍、徳川軍、酒井忠次軍によって
膨大な被害を出したと思いますが
それでも一万から一万二千も被害を出さなかったと思いますし
多くの優れた家臣の命を守る事も可能でした
そうしたら、武田家は、その後も
まだまだ織田軍、徳川軍と戦う事もできたのです
しかし、そんなことをあれこれ言っていても
すべては後の祭りです
この敗戦の全責任は、武田勝頼にあります
武田家臣にある訳ではないのです
だって武田勝頼は、心の中で、織田軍を侮っていて
まだまだ織田信長の怖さを分かっていなかったと思いますし
信玄公が死んだ後も、浅井家、朝倉家、長島の一向一揆という敵を
次々と潰していって、どんどん大きくなっている織田軍に対して
焦りも感じていたと思うからです
その上に、信玄公の旧来の家臣とも、なかなかうまくいかず
戦いに勝利する必要がありました
それで自分も、信玄公に比べても劣らないという事を
証明しようとしていたのです
なので、そんな武田勝頼の侮りや焦りもあって
武田勝頼は、織田信長の罠に気がつきませんでした
だって長篠の合戦の前の前哨戦で勝利した時に
織田信長に対して用心していたら
怪しいと気がついたかもしれませんし
まだ、長篠城を落としていないのに
2倍以上の兵力がある織田軍、徳川軍と戦うと言う
兵法上の大きな危険を犯すことも冒すこともなかったと思うからです
いえ、それよりも、長篠を守る為に
徳川家康の要請で、織田信長が大軍で来ている情報を得た時点で
山県昌景や内藤昌豊などの家臣が言うように
長篠城を諦めて、撤退していたら良かったと思います
つくづくあの時の武田勝頼は、「アンポンタン」で
織田信長というのは、恐ろしい武将だったと思います
だけど、435年も経過した2010年の今となっては
そういった事も、もう過ぎた事です
前世武田勝頼としての記憶がない俺には
何ともいえません
今書いた事が正しかったのかどうかも分からないのです
でも俺は、前世武田勝頼として
長篠の戦の事は忘れていませんし
多くの有能な武田家の家臣達には
今でも済まないと思っています
なので、毎年5月16日の鳥居強右衞門を処刑した日から
5月21日の長篠の合戦を敗れた日までは
長篠の戦で戦死した武田家臣団を慰霊する日として
いろんな事をあれこれ考えて
多くの武田家の家臣達と、過ごしたいと思います
そんな長篠の合戦済度を楽しみたいと思うのです
きっとそんな俺を、武田家の家臣達は
笑いながら見守ってくれていると思います
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2010年、12月23日〜26日
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俺の50歳の誕生日で
フォトンベルトに突入するとか
マヤ歴の予言でも
人類が滅亡するかもしれないと言う日まで
俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました
と言うのも、俺は、1993年10月1日
18年前に、何故縁の花を書き始めたのか
この世で、皆さん、一人、一人と
何を約束したのか
全部、明快に分かったからです
しかも、長年探し求めていた
日本や世界、人類を救う方法も
その手段も分かりました
答えは、すべて縁の花の中
皆さんにあったのです
だから、俺は、それを
この2年間という短い期間の間に
皆さんに、伝えきるつもりです
皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる
目には、見えない存在を救い切る覚悟です
是非、キクの命がけのお願いです
「2011年、縁の花の読者の皆様へ
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をお読み頂きたいと思います』
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