地上天国の完成
この後、わたしは天の大群衆が
大声で唱えるような声を聞いた、
「ハレルヤ、救と栄光と力とは、
われわれの神のものであり、
そのさばきは、真実で正しい。
神は、姦淫で地を汚した大淫婦をさばき、
神の僕たちの血の報復を
彼女になさったのである」。
再び声があって、
「ハレルヤ、彼女が焼かれる火の煙は、
世々限りなく立ちのぼる」と言った。
すると、二十四人の長老と四つの生き物とがひれ伏し、
御座にいます神を拝して言った、
「アァメン、ハレルヤ」。
その時、御座から声が出て言った、
「すべての神の僕たちよ、
神をおそれる者たちよ。
小さき者も大いなる者も、
ともに、われらの神をさんびせよ」。
わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、
また激しい雷鳴のようなものを聞いた。
それはこう言った、
「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、
王なる支配者であられる。
わたしたちは喜び楽しみ、
神をあがめまつろう。
小羊の婚姻の時がきて、
花嫁はその用意をしたからである。
彼女は、光り輝く、
汚れのない麻布の衣を着ることを許された。
この麻布の衣は、
聖徒たちの正しい行いである」。
それから、御使はわたしに言った、
「書きしるせ。
小羊の婚宴に招かれたものは、
さいわいである」。
またわたしに言った、
「これらは、神の真実の言葉である」。
そこで、わたしは彼の足元にひれ伏して、
彼を拝そうとした。
すると、彼は言った、
「そのようなことをしてはいけない。
わたしは、
あなたと同じ僕仲間であり、
またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと
同じ僕仲間である。
ただ神だけを拝しなさい。
イエスのあかしは、
すなわち預言の霊である」。
ヨハネの黙示録 19章
疫病、飢饉、戦火による悪魔的未来人の地球侵略が、迫っている。しかし、これを回避するために、天使的未来人は、我々に福音を与えたのである。我々には、悪魔による呪いの道と天使による祝福の道が用意されていたのだ。
もし、我々地球人が、悔い改め、唯一の神を認め、天使的未来人を仲間として受け入れるならば、不幸な未来は、消えてなくなるのである。
この後、わたしは天の大群衆(である天使的未来人)が
大声で唱えるような声を聞いた、
「ハレルヤ、救と栄光と力とは、
われわれの神のものであり、
そのさばきは、真実で正しい。
神は、(悪魔との)姦淫で地を汚した大淫婦(である地球)をさばき、
神の僕たちの血の報復を
彼女になさったのである」。
再び声があって、
「ハレルヤ、彼女(すなわち地球)が焼かれる火の煙は、
世々限りなく立ちのぼる」と言った。
すると、二十四人の長老と四つの生き物とがひれ伏し、
御座にいます神を拝して言った、
「アァメン、ハレルヤ」。
その時、御座から声が出て言った、
「すべての神の僕たちよ、
(この宇宙を創造した唯一の)神をおそれる者たちよ。
小さき者も大いなる者も、
ともに、われらの神をさんびせよ」。
わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、
また激しい雷鳴のようなものを聞いた。
それはこう言った、
「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、
王なる支配者であられる。
わたしたちは喜び楽しみ、
神をあがめまつろう。
小羊(であるイエスを代表とする天使)の婚姻の時がきて、
花嫁(である地球)はその用意をしたからである。
(悔い改めた)彼女(すなわち地球)は、光り輝く、
汚れのない麻布の衣を着ることを許された。
この麻布の衣は、
聖徒たちの(悪魔を排除し天使の福音を受け入れる)正しい行いである」。
それから、御使はわたしに言った、
「書きしるせ。
小羊(であるイエスを代表とする天使)の婚宴に招かれたものは、
さいわいである」。
またわたしに言った、
「これらは、神の真実の言葉である」。
そこで、わたしは彼(すなわち天使的未来人)の足元にひれ伏して、
彼を拝そうとした。
すると、彼は言った、
「そのようなことをしてはいけない。
わたしは、
あなたと同じ僕仲間であり、
またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと
同じ僕仲間である。
ただ神だけを拝しなさい。
イエスのあかしは、
すなわち預言の霊である」。
悪魔的未来人は、疫病、飢饉、戦争で、多くの地球人を殺戮し、地球人を適正な人数にした後、救世主、いや、神として降臨した。そして、地球人を奴隷化し、彼らを神として崇拝させさえした。
彼らの支配体制に逆らうものは、抹殺し、奴隷と化した地球人は、人間としての誇りも失ってしまったのである。
天使的未来人は言う、天使さえ崇拝してはならないと、神だけを崇拝せよと。
ここで、彼らのいう神とは、何かをもう一度はっきりさせなければならないであろう。
この宇宙が出きる前、この神の霊のみがあった。それは、一つの思念体であった。新約聖書では、その思念を言葉と表現していたのを思い出して欲しい。そして神は、自らの霊、気を刻んで、この宇宙の森羅万象を創造したのである。
主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。
すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、
すべてのものの内にいます、
すべてのものの父なる神は一つである。
聖書 エペソ人への手紙 4章
神は、万物に内在するのである。
主なる神は土のちりで人を造り、
命の息をその鼻に吹きいれられた。
そこで人は生きた者となった。
創世記 2章
主なる神は土(すなわち地球)のちり(すなわち元素)で人を造り、
命の息(すなわち生命、霊)をその鼻に吹きいれられた。
そこで人は生きた者となった。
人間もその例外ではない。地のちり、地球の元素を使い生物も、人間も造ったのである。しかし、神は、我々人間に、最も濃い神の息を吹き込んだのである。最も濃い神の霊を吹き込んだのである。
あなたがたは神の宮であって、
神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。
聖書 コリント人への第一の手紙 3章
「神は、わたしたちの内に住まわせた霊をねたむほどに愛しておられる」
と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。
聖書 ヤコブの手紙 4章
神は、どこか遠いところに居るのではない。神の霊は、万物に宿り、我々の生命に内在しているのである。
それだけではない。その神の性質、全知全能と呼ばれる力もまた我々の中で活きているのだ。
尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。
それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、
神の性質にあずかる者となるためである。
聖書 ペテロの第二の手紙 1章
我々人間とは、神の子、宇宙の子なのである。
あなたがたはあなたがたの神、主の子供である。
聖書 申命記 14章
彼らは生きる神の子らであると、呼ばれるであろう。
聖書 ローマ人への手紙 9章
我々人間の霊、生命は、この万物に宿る神の霊なのである。ゆえに、我々が強く思い続けることは、万物に伝わり、その思いは現実となるのである。父なる神が、子なる我々の思いにこたえられるのである。
しかし、人間は、自分が神の子だという事実も忘れ、物質文明に溺れ、お互いに虐め合い殺し合い、利己主義、憎悪、嫉妬、怒り、恐怖、慢心、貪欲、絶望、、、などのマイナス意識で、心を満たしてしまっているのだ。
我々の霊は、神の霊である。神が、その思念でこの宇宙を創造したように、我々の思いが我々の未来を創造するのである。実は、あの不要人類抹殺計画による破局も、悪魔的未来人の侵略による破局も、その根本原因は、我々人類の発したマイナス意識なのである。
この破局を回避するには、地球人が、自分自身の中に住む唯一の神を認め、その同じ神を共有する他者を愛し、感謝、愛、希望、思いやり、、、などのプラス意識に心を改める以外にないのである。
実は、様々な宗教は地球人が、これを学ぶための型として、未来人から我々に手渡されたのである。
わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。
先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
また、聖なる都、新しいエルサレムが、
夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、
神のもとを出て、天から下ってくるのを見た。
また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、
人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。
もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。
先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
すると、御座にいますかたが言われた、
「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。
また言われた、
「書きしるせ。
これらの言葉は、
信ずべきであり、まことである」。
そして、わたしに仰せられた、
「事はすでになった。わたしは、
アルパでありオメガである。初めであり、
終わりである。かわいている者には、
いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
勝利を得る者は、
これらのものを受け継ぐであろう。
わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、
人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、
すべて偽りを言う者には、
火と硫黄の燃えている池が、
彼らの受くべき報いである。
これが第二の死である」。
最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を
もった七人の御使のひとりがきて、
わたしに語って言った、
「さあ、きなさい。
小羊の妻なる花嫁を見せよう」。
この御使は、わたしを御霊に感じたまま、
大きな高い山に連れて行き、
聖徒エルサレムが、神の栄光のうちに、
神のみもとを出て天から下ってくるのを見せてくれた。
その都の輝きは、高価な宝石のようであり、
透明な壁玉のようであった。
それには大きな、高い城壁があって、
十二の門があり、それらの門には、
十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二の部族の名が、
それに書いてあった。
東に三つの門、北に三つの門、
南に三つの門、西に三つの門があった。
また都の城壁には十二の土台があり、
それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
わたしに語っていた者は、
都とその門と城壁とを測るために、
金の測りざおを持っていた。
都は方形であって、
その長さと幅は同じである。
彼がその測りざおで都を測ると、
一万二千丁であった。長さと幅と高さとは、
いずれも同じである。
また城壁を測ると、百四十四キュピトであった。
これは人間の、すなわち、御使の尺度によるのである。
城壁は壁玉で築かれ、
都はすきとおったガラスのような純金で造られていた。
都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。
第一の土台は壁玉、第二はサファイヤ、
第三はめのう、第四は緑玉、
第五は縞めのう、第六は赤めのう、
第七はかんらん石、第八は緑柱石、
第九は黄玉石、第十はひすい、
第十一は青玉、第十には紫水晶であった。
十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ真珠で造られ、
都の大通りには、透き通ったガラスのような純金であった。
わたしは、この都の中には聖所を見なかった。
全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。
都は、日や月がそれを照す必要がない。
神の栄光が都を明るくし、小羊が都の明かりだからである。
諸国民は都の光の中を歩き、
地の王たちは、自分たちの栄光をそこに携えて来る。
都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。
人々は、諸国民の栄光とほまれとをそこに携えて来る。
しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、
その中に決してはいれない。
はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。
御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。
この川は、神と小羊の御座から出て、
都の大通りの中央を流れている。
川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、
その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。
のろわれるべきものは、もはや何ひとつない。
神と小羊との御座は都の中にあり、
その僕たちは彼を礼拝し、
御顔を仰ぎ見るのである。
彼らの額には、御名がしるされている。
夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。
主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。
彼はまた、わたしに言った、
「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。
預言者たちのたましいのか神なる主は、
すぐにも起こるべきことをその僕たちに示そうとして、
御使をつかわされたのである。
見よ、わたしは、すぐに来る。
この書の預言の言葉を守るものは、さいわいである」。
これらのことを見聞きした者は、このヨハネである。わたしが見聞きした時、
それらのことを示してくれた御使の足もとにひれ伏して拝そうとすると、
彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。
わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、
この書の言葉を守る者たちと、
同じ仲間である。ただ神だけを拝しなさい」。
またわたしに言った、「この書の預言の言葉を封じてはならない。
時が近づいているからである。
不義な者はさらに不義を行い、
汚れた者はさらに汚れたことを行い、
義なる者はさらに義を行い、
聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。
「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、
それぞれのしわざに応じて報いよう。
わたしはアルパであり、オメガである。
最初の者であり、最後の者である。
初めであり、終わりである。
いのちの木にあずかる特権を与えられ、
また門をとおって都にはいるために、
自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、
偶像を拝む者、また、
偽りを好みかつこれを行う者はみな、
外に出されている。
ヨハネの黙示録21〜22章
地球人が、我々に内在するこの唯一の神を認め、神の愛を学び、天使を仲間として受け入れた時、天から天使的未来人は、降りてくる。
わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。
先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
また、聖なる都、新しい(平安の都である)エルサレムが、
夫(である全人類)のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、
神のもとを出て、天から下ってくるのを見た。
また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、
人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。
もはや、(永遠の生命を得て)死もなく、
悲しみも、叫びも、痛みもない。
先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
すると、御座にいますかたが言われた、
「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。
また言われた、
「書きしるせ。
これらの言葉は、
信ずべきであり、まことである」。
そして、わたしに仰せられた、
「事はすでになった。わたしは、
アルパでありオメガである。
(世の)初めであり、(世の)終わりである(大生命である)。
かわいている者には、
いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
勝利を得る者は、
これらのものを受け継ぐであろう。
わたしは彼の神となり、彼はわたしの(霊を宿す)子となる。
しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、
人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、
すべて偽りを言う者には、
(悪魔的未来人の地球侵略の)火と硫黄の燃えている池が、
彼らの受くべき報いである。
これが第二の死である」。
最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を
もった七人の御使のひとりがきて、
わたしに語って言った、
「さあ、きなさい。
小羊(イエスを代表とする天使的未来人)の妻なる花嫁(である地球)を見せよう」。
この御使は、わたしを御霊に感じたまま、
大きな高い山に連れて行き、
聖徒エルサレムが、神の栄光のうちに、
神のみもとを出て天から下ってくるのを見せてくれた。
その都の輝きは、高価な宝石のようであり、
透明な壁玉のようであった。
それには大きな、高い城壁があって、
十二の門があり、それらの門には、
十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二の部族の名が、
それに書いてあった。
東に三つの門、北に三つの門、
南に三つの門、西に三つの門があった。
また都の城壁には十二の土台があり、
それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
わたしに語っていた者は、
都とその門と城壁とを測るために、
金の測りざおを持っていた。
都は方形であって、
その長さと幅は同じである。
彼がその測りざおで都を測ると、
一万二千丁であった。長さと幅と高さとは、
いずれも同じである。
また城壁を測ると、百四十四キュピトであった。
これは人間の、すなわち、御使の尺度によるのである。
城壁は壁玉で築かれ、
都はすきとおったガラスのような純金で造られていた。
都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。
第一の土台は壁玉、第二はサファイヤ、
第三はめのう、第四は緑玉、
第五は縞めのう、第六は赤めのう、
第七はかんらん石、第八は緑柱石、
第九は黄玉石、第十はひすい、
第十一は青玉、第十には紫水晶であった。
十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ真珠で造られ、
都の大通りには、透き通ったガラスのような純金であった。
わたしは、この都の中には(今までの宗教は消えうせて)聖所を見なかった。
全能者にして主なる神と小羊(である全人類)とが、
その聖所なのである。
都は、日や月がそれを照す必要がない。
神の栄光が都を明るくし、
小羊(である全人類)が都の明かりだからである。
諸国民は都の光の中を歩き、
地の王たちは、自分たちの栄光をそこに携えて来る。
都の門は、終日、閉ざされることはない。
そこには夜がないからである。
人々は、諸国民の栄光とほまれとをそこに携えて来る。
しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、
その中に決してはいれない。
はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。
御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。
この川は、神と小羊の御座から出て、
都の大通りの中央を流れている。
川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、
その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。
のろわれるべきものは、もはや何ひとつない。
神と小羊(である全人類)との御座は都の中にあり、
その僕たちは彼を礼拝し、
御顔を仰ぎ見るのである。
彼らの額には、御名がしるされている。
夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。
主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。
彼はまた、わたしに言った、
「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。
預言者たちのたましいのか神なる主は、
すぐにも起こるべきことをその僕たちに示そうとして、
御使をつかわされたのである。
見よ、わたしは、すぐに来る。
この書の預言の言葉を守るものは、さいわいである」。
これらのことを見聞きした者は、
このヨハネ(すなわち破局と神の愛を伝えてきた宗教者)である。
わたしが見聞きした時、
それらのことを示してくれた御使(すなわち天使的未来人)の足もとにひれ伏して拝そうとすると、
彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。
わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、
この書の言葉を守る者たちと、
同じ仲間である。ただ神だけを拝しなさい」。
またわたしに言った、「この書の預言の言葉を封じてはならない。
時が近づいているからである。
不義な者はさらに不義を行い、
汚れた者はさらに汚れたことを行い、
義なる者はさらに義を行い、
聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。
「見よ、わたしはすぐに来る。
報いを携えてきて、
それぞれのしわざに応じて報いよう。
わたしはアルパであり、オメガである。
最初の者であり、最後の者である。
初めであり、終わりである。
いのちの木にあずかる特権を与えられ、
また門をとおって都にはいるために、
自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
(聖なる預言に噛み付く)犬ども、
(宗教の本質に気づかず、その信仰の型にこだわって)まじないをする者、
(天使を受け入れない)姦淫を行う者、人殺し、
(本当の神に気づかず)偶像を拝む者、
また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、
外に出されている。
犬とは、聖なる預言に、噛み付き、天使の福音を無にする者どものことであろう。まじないとは、宗教の本質に気づけず、自分の宗教の型、祭式、枠組み、組織にこだわる者のことである。偶像を拝む者も、真の神を認めず、彼らの宗教の信仰の対象を神であると言い張る者のことである。
私は、偶像崇拝が悪いことだとは、思わない。キリスト教だけでなく、どの宗教、宗派も天から降った聖者によって我々に、与えられたものなのだから。どれも尊い信仰の型なのだから。
偶像を崇拝したい者は、その偶像を通して、自己の中の唯一の神(神性、仏性)を崇拝すればよい。いけないのは、自己の中の唯一の神の存在に気づけず、自分達の宗教の型や祭式(まじない)、枠組み、組織を特別なものと見なす選民思想にあるのです。その上、自分達の宗教以外に救われる方法はないと信じ、あたかも生贄を捧げるがことく、布教活動に熱中する、自分達の神に自分が祝福され、ご利益を得るために。
実は、ユダヤ教もキリスト教も、譬えにすぎないのです。
ユダヤ教徒は、宇宙の創造主を語りながらも、自分達しか愛さない心の狭い神を信じ、自分達が神に選ばれたのだとする選民思想をもち、生贄を捧げ、さらにイエスを受け入れない。これは、現代の多くの宗教、宗派の譬えなのです。さらに、キリスト教とは、普遍的な神を認め、生贄を廃し、イエスを代表とする天使的未来人を受け入れるイエス再臨の後にこの地上に出現する新しい心のあり方の譬えなのです。