新しい契約
神の刻印については、何度かお話ししたが、やはりもっと詳しくお話ししなければならないようである。別の言い方をすれば、新しい契約である。ユダヤ教の旧約に対するキリスト教の新約である。ユダヤ教の契約が、イエス・キリストの出現で無効になったように、様々な宗教・宗派の神仏が、その信者と結んできた契約も、再臨のイエスの出現で無効になるのである。
ところが、神は彼らを責めて言われた、
「主は言われる、
見よ、わたしがイスラエルの家およびユダの家と、
新しい契約を結ぶ日が来る。
それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、
エジプトの地から導き出した日に、
彼らと結んだ契約のようなものではない。
彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、
わたしも彼らをかえりみなかったからであると、主が言われる。
わたしが、それらの日の後、
イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、
と主が言われる。
すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、
彼らの心に書きつけよう。
こうして、わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となるであろう。
彼らは、それぞれ、その同胞に、また、それぞれ、
その兄弟に、主を知れ、と言って教えることはなくなる。
なぜなら、大なる者から小なる者に至るまで、
彼らはことごとく、わたしを知るようになるからである。
わたしは、彼らの不義をあわれみ、
もはや、彼らの罪を思い出すことはしない」。
神は、「新しい」と言われたことによって、
初めの契約を古いとされたのである。
年を経て古びたものは、やがて消えていく。
ヘブル人への手紙 8章
ヘブル人への手紙からの抜粋であるが、これは、ヘブル人すなわちユダヤ人に宛てた手紙ではない。思い出して欲しい、キリスト教もユダヤ教も、それ自体が譬えにすぎなかった。
イエスはこれらのことをすべて、譬で群衆に語られた。
譬によらないでは何事も彼らに語られなかった。
マタイによる福音書 13章
ユダヤ教とは、現在までの宗教の譬え、キリスト教とは、イエス再臨後の、地球人の心のあり方の譬えであった。イエス再臨で、これまでの宗教、宗派の神仏がその信者と結んできた契約は無効になるのである。だから、地球人は、新しい契約を、再臨のイエスを通して、父なる神と結ばなければならないのである。
古い割礼という神の刻印ではなく、心に刻む神の刻印こそが、神との契約である。
また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、
そのほまれは人からではなく、神からくるのである。
ローマ人への手紙 2章
だから、神の戒めを心に刻みさえすれば、神と契約したことになるのである。獣の刻印を拒否したことになるのである。そこで、再臨のイエスを通して、神と結ぶ新しい契約の内容を、あきらかにする必要がある。
契約条項一 父なる神を認めること
父なる神は、思念、霊、気で万物を創造した。そしてその万物の中に、神の力が活きているのだ。たとえ虫けらでさえ、生き残るために、こうなりたいと願えば、その何世代もの思念の集積が、その生物を進化させるのである。葉っぱとみまごう擬態も、決して偶然の産物、単なる適者生存の結果ではない。
神はまた言われた、
「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、
これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、
地のすべての這うものとを治めさせよう」。
創世記 1章
そして、神は、我々人間にその最も高い密度を与え、万物の霊長とされたのだ。我々には、他にない想像力、思考を具体化する言語が与えられた。その能力があるからこそ、我々は文明を発展させることができたのである。
しかし、我々は、自分達が神の子、神自身であることも忘れ、利己主義、憎悪、嫉妬、怒り、恐怖、慢心、貪欲、絶望、、、などのマイナス意識で心を満たし、憎み合い、いじめ合い、殺し合い。その行為と思念が、破局を招くのである。今、そのマイナス思念が、世界を覆いまた破滅を招こうとしている。神が思念でこの宇宙を創造したように、我々の思念もすべてを創造するのである。
天使的未来人は、「我々の生命には、神が宿っている。ゆえにいかなる苦しみにも負けず活き抜き、同じ神を宿す他者に愛を持ち、みんなが幸せになれる世界を築きなさい」と言うメッセージを宗教に託した。
しかし、地球人は、その宗教を口実に、憎み合い、殺しあう。
今こそ、この神が我々に宿ると言う現実にみなが気づき、マイナス意識を、感謝、愛、希望、思いやり、、、などのプラス意識に切り替え、個人の心そして世界を浄化しなければならない。神を認めることとは、ある意味で自分自身を認めることなのである。
契約条項二 イエスを代表とする天使的未来人を受け入れること
イエスを代表とする未来人は、物言わぬ神の意志を悟り、過去の我々を哀れんで、6千年間も天使として働いてきたのである。彼らは、彼らを仲間として受け入れる者は、彼らも彼らの社会に同等の立場で受け入れると約束しているのだ。彼らを、受け入れる者は、大艱難が起っても、防ぎ守ることは約束している。いや、彼らを受け入れた者は、たとえその命を失ったとしても、復活させ永遠の生命を与えると約束しているのである。
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、
父がすべこれをとりのぞき、実を結ぶものは、
もっと豊かに実らせるために、
手入れしてこれをきれいになさるのである。
あなたがたは、わたしが語った言によって既にきよくされている。
わたしにつながっていなさい。
そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。
枝がぶどうの木につながっていなければ、
自分だけでは実を結ぶことができない。
ヨハネによる福音書 15章
やはりキリスト教徒が言うように、「イエスを受け入れない者は救われない」と言うのは本当だったようだ。
そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、
すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、
わたしの新しい名とを、書きつけよう。
耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。
ヨハネの黙示録 3章
この終末、我々地球人は、イエス・キリストを、新しい名で受け入れなければならないのである。彼ら天使も、天使を受け入れられない人間を受け入れられないのである。あなたは、あなたを受け入れない人間を受け入れられますか。
そしてこの契約は、最後の審判の7年間に結ばれることになっている。
彼は一週の間多くの者と、
堅く契約を結ぶでしょう。
そして彼はその週の半ばに、
犠牲と供え物とを廃するでしょう。
また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。
こうしてついにその定まった終りが、
その荒す者の上に注がれるのです」。
ダニエル書
彼(すなわち再臨のイエス)は一週(間に譬えられる7年)の間多くの者と、
堅く(新しい)契約を結ぶでしょう。
そして彼はその週の半ばに、
(同胞を)犠牲と供え物(として神に捧げる布教活動)とを廃するでしょう。
また荒す者(すなわち悪魔的未来人)が憎むべき者の翼(すなわちUFO)に乗って来るでしょう。
こうして(天使的未来人が勝利して)ついにその定まった終りが、
その荒す者(とその従者)の上に注がれるのです」。
ダニエル書のこの契約を一部の聖書では、盟約と訳し、彼を悪魔と解釈するものもある。と言うのも、キリスト教徒がナザレのイエスと結んだ契約が古い契約であり、再臨のイエスが、また新しい契約を結ぶなど夢にも思っていないからである。しかし、この彼とは、悪魔でもナザレのイエスでもなく、再臨のイエスであり、この契約は、カベナントなのである。カベナントとは、神と人との契約を意味する言葉である。
しかし、盟約と言うのも全く当たっていないわけでもない。この再臨のイエスと新しい契約を結ばないということは、自動的に悪魔と盟約を結ぶということである。獣の刻印を受けるということなのである。
この終末に人類は、個人的にも、全体としても、天使か悪魔かどちらかを選ばなければならないのだ。私は、全人類が「再臨のイエスとの新しい契約」を選んでくれるものと信じている。
ところが、神は彼らを責めて言われた、
「主は言われる、
見よ、わたし(すなわち再臨のイエス)が
イスラエルの家およびユダの家と、
新しい契約を結ぶ日が来る。
それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、
エジプト(に譬えられる地球)の地から導き出した日に、
彼らと結んだ(選民思想に満ちた)契約のようなものではない。
彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、
わたしも彼らをかえりみなかったからであると、
主が言われる。
わたしが、それらの日の後、
イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、
と主が言われる。
すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、
彼らの心に書きつけよう。
こうして、わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となるであろう。
彼らは、それぞれ、その同胞に、
また、それぞれ、その兄弟に、
(自分の宗教、宗派の)主を知れ、
と言って教え(布教活動をす)ることはなくなる。
なぜなら、大なる者から小なる者に至るまで、
彼らはことごとく、
(万物を貫き、我々に内在の神である)わたしを知るようになるからである。
わたしは、彼らの不義をあわれみ、
もはや、彼らの罪を思い出すことはしない」。
神は、「新しい」と言われたことによって、
初めの(宗教の)契約を古いとされたのである。
年を経て古びたものは、やがて消えていく。