縁の花

(21世紀に咲く智恵の輪)

282

武田勝頼逆転物語

(御館の乱編3)

武田勝頼 御館の乱を治める

 

 

∞「武田家団結して

織田軍を撃退する」∞

 

織田信長は、8月30日、越前を攻撃した

5万の大軍の内2万を

織田信忠に任せて、手筒山城を攻撃させながらも

残り3万の大軍を、密かに率いて

近江、美濃を、何と1週間で、通りすぎると

一気に、東美濃から、信濃に入りました

そこから、一気に、大島島、飯島島、高遠城を抜いて

伊奈、諏訪を攻略して

甲斐を目指したのです

 

また、高天神城を無視して

駿河の田中城を、1万の軍で攻めている徳川家にも

新たに、尾張の1万の兵の援軍を出して

徳川軍には、甲斐の侵攻を命じました

織田軍、徳川軍が、甲斐に入れば

武田軍は、崩壊すると判断していたのです

 

しかし、織田信長が期待していた程

武田家の団結は、崩れていませんでした

というのも、勝頼が、1万5千の兵で

越中に入ったという報告があった時は

一体、何をしているのかと、不満を感じていた

武田家の一族、家臣も

勝頼が、七夕の日に、加賀の金沢御坊の戦いで

柴田勝家率いる織田軍を破って

そのまま、越前に侵攻すると

見事に、越前を占領したという報告が入ると

態度を豹変していました

さすがは、勝頼公となっていたのです

 

しかも、勝頼が、越前だけでなく、加賀も支配して

越前を攻めている織田軍に対しても

勝利している報告が入ると

武田家の士気も高まっていました

これで、武田家は、信玄公の代の名声を

取り戻せたと、涙を出して喜んでいたのです

 

だから、徳川家康が、駿河を攻めても

武田軍は、平然としていました

特に、田中城にいた依田信蕃の士気は高く

城を囲まれても、まったく、徳川軍を寄せつけていませんでしたし

江尻城にいて、駿河を任されていた穴山信君も

普段は勝頼に対して不満げでしたが

徳川軍に対して、戦意は旺盛でした

2千の兵で、江尻城を固めていて

簡単に、城が落ちる気配はなかったのです

勝頼が、信濃、甲斐、駿河の武将達に

こまめに、近況を、越前から、報告したのが効いていたのです

 

 

ですから、織田軍が、新たに3万の大軍で

信濃に、攻め寄せようとしても、戦は、織田信長の期待通りにいきませんでした

というのも、勝頼に、信濃を任されていた仁科盛信は

大島城まで、織田軍を向かえ入れると

ここで、織田軍を防ぎました

もう一つ、戦意のない武田信廉に代わって

自ら、伊奈の兵と諏訪の兵、3千の兵で、籠ると

織田軍を食い止めたのです

 

しかも、海津城で、御館の乱の行方を

見守っていた真田昌幸も、5千の兵で

応援にすぐに駆けつけてきていました

その上、真田昌幸は、真田の忍者に命令して

美濃と信濃の国境付近で、織田軍の後方を攪乱させました

真田家得意のゲリラ戦法を実施したのです

 

また、駿河では、新たな1万の援軍を得た

徳川家康が、信長の命令通り

田中城に、織田軍1万を残すと

徳川1万で、蒲原城を落として

甲斐に攻めようとしましたが

それも難しい情勢でした

 

蒲原城を守っていた朝比奈駿河守信置も

700名の兵で、必死で、死守して

簡単に落ちませんでしたし

甲斐内でも、勝頼の跡継、武田信勝を中心として

徳川軍を迎え討つ覚悟でした

しかも、期待していた織田軍も

大島城で、進軍を止められています

徳川家康には、甲斐を攻略できる

自信がなかったのです

 

でも、それでも、名将

徳川家康は、甲斐に侵攻しました

甲斐を抑えたら、駿河の武田軍

大島城の武田軍も、崩壊すると判断していたのです

だけど、それも、大島城から、急遽駆け付けた

勝頼から、すべてを任されていた真田昌幸の判断で

甲斐を一端、放棄した事で

家康の目論見は、頓挫しました

 

誰もいない躑躅ヶ埼館を占領して

このまま甲斐に留まっていたら

武田勝頼が、越前から兵を援軍に出したら

大変な事になります

徳川家は、地の利を得ていないので

全滅してしまうのです

 

 

と言って、諏訪まで攻め寄せても

武田信勝が入っている諏訪の上原城は、

兵も、甲斐、諏訪の兵で、全軍で5千と多く

簡単に落ちない感じです

しかも、武田家と同盟を結んでいる

北条家のことも気になります

武田家は、上杉景勝を支持したことで

上杉影虎を応援している北条家を裏切ったという事ですが

上杉影虎と戦火を交えた訳ではなく

その関係は、壊れていませんでした

 

家康は、北条家に、同盟を申し入れましたが

やっと動いた、上杉影虎の援護の為に

東上野に攻略で手一杯だった上に

北陸の越前の動きが分からないので

武田勝頼の勝利の報告が入っているので

北条家は、情勢を見ているのか

まったく動こうとはしませんでした

だけど、その北条が、武田家の要請で

甲斐、駿河に侵攻したら

徳川軍は、退路を断たれてしまいます

 

なので、徳川家康は、甲斐から撤退すると

蒲原城まで、兵を引くと

織田軍と武田軍の大島城の行方を

見守る事にしました

真田昌幸の策が、見事に成功したのです

 

そして、そのことで、織田信長も

苦戦している大島城から撤退する事にしました

武田勝頼は、このことを予期していたのか

9月3日、織田信長が、3万の軍で

信濃に向かうと知ると

すぐに、越前から、本国に、5千以上の兵を

送ったという情報は入っていたからです

 

なので、その兵が、越中から、信濃に入ったら

織田軍も、袋の鼠になってしまいます

しかも、後、2ヶ月もして

11月になったら、雪が降り始めますし

期待した木曽家など、武田家臣の寝返りも

使者を送っても、誰からも返事はありませんでした

もう信濃、甲斐を支配することは

不可能だったのです

 

それで、織田信長は、武田家の団結も

信玄公の頃に戻ったことを感じると

9月15日に、2週間続いた信濃侵攻を

中止しました

徳川家にも、連絡して慌てて

信濃から引くと東美濃を固めました

徳川家康も、それで、駿河から撤退して

遠江、三河を固めることになったのです

 

∞武田勝頼 上杉景勝

上杉影虎の調停する」

 

武田勝頼は、織田信長の信濃、甲斐侵攻を

警戒していたのか

9月3日、織田信長が、8月30日

密かに、手筒山の戦いから

3万の大軍を撤退させたことを知ると

武田信豊に5千の兵を任せて

越前から信濃に向けました

 

だから、武田信豊は、武田家の新たな領土になった

加賀で8千、越中で、2千の兵を集めると

急いで、信濃に戻りました

何としても、信濃、甲斐は、守るつもりだったのです

 

また、勝頼自身は、武田軍9千と越前の兵1万5千

一向衆5千、3万ちかい兵で

手薄になった織田信忠を攻めて

近江に出ようとしました

織田信忠と戦をして、近江に入ろうとしたのです

 

しかし、織田信忠は、織田信長から

武田勝頼との戦は、避けるように厳命されていたのか

武田軍が、手筒山城を突破して、近江に入ると、

慌てて、兵を引くと

安土城に1万、長浜城に3千、坂本城に4千

佐和山城に3千と各主要な城に

兵を配置すると、守りを固めました

これで、武田軍を防ぐ作戦だったのです

 

また、この作戦は、成功しました

武田勝頼は、近江の各城の攻撃を諦めました

後、2ヶ月間で、越前には雪が降り始めます

例え、城を落としても

再び、織田軍が迫って来たら

武田軍は、救援することはできません

近江攻略は、諦めたのです

 

と同時に、本願寺、毛利家からは

武田軍を、近江の坂本まで、侵攻させて

大阪本願寺、播磨の三木城に迫って

織田軍の包囲網を破って欲しいという依頼もありましたが

武田勝頼は、慎重に考えて断りました

織田信長が、それを知ったら、電光石火の動きで

信濃から兵を引いて、再び、戻ってくる可能性もあります

 

武田勝頼は、本願寺、播磨の三木城の苦境は

よく理解して、必ず、来年、大軍を向けて

救出することを約束して

依頼を丁寧に断ったのです

 

でも、その勝頼の判断は正解でした

織田信長は、勝頼が、摂津、播磨に向けたら

信濃から戻ることも考えていました

それで、信濃で、がんばっていました

大返しの策も考えていたのです

 

そして、そんな中で、武田勝頼が選んだのは

懸案になっていた上杉景勝と上杉影虎の調停でした

武田勝頼は、甲斐、信濃が心配のこともあって

越前は、曽根昌世に任せると

武田軍、4千を持って、越後を目指しました

その軍は、加賀、越中で、4千の兵と合流すると

越後に入った時には、8千の軍になっていたのです

 

また、越後の内乱、御館の乱は

勝頼が、上杉景勝と手を結んだことで

景勝有利になっていました

越後では、景勝派が、影虎を

追い詰めていたのです

 

しかも、やっと9月になってから、

重い腰を上げた北条氏政は

上野担当の北条氏照・氏邦に

上杉影虎を、支援させましたが

これもなかなかうまくいきませんでした

 

北条氏照・氏邦は、2万の大軍で

東上野の景勝派の城を攻略して

越後にやっと入ると

樺沢城と坂本城を攻め落としましたが

それ以上は、景勝派の抵抗で進めなかったのです

 

というのも、景勝は、武田勝頼が

北陸の織田軍を一掃してくれたので

能登と越中、半国の上杉軍を

全軍、越後に入れることができました

1万の軍が、新たに、景勝の味方になっていて

2万の北条軍を恐れていなかったのです

 

武田勝頼が、そんな越後に入ったのは

9月20日でした

そこで、武田勝頼は、織田信長が

9月15日に、信濃から撤退したという報告を聞くと

越後の春日山城ちかくにある鮫ヶ尾城に入ると

早速、景勝、影虎の調停にいよいよ乗り出したのです

 

∞「武田勝頼 見事に

御館の乱を治める」∞

 

また、その勝頼の提案は、景勝有利という事でもありませんでした

勝頼は、まだ、正式に、景勝と同盟を結んでいないという感じで

景勝派を怒らせたのです

 

でも、武田勝頼は、上杉景勝が怒っても

この調停を成立させて、御館の乱を終わらせるつもりでした

来年まで、長引かせるつもりはなかったのです

 

しかも、勝頼は、北条家にも、調停を納得させて

武田家と北条家の同盟は、絶対に守るつもりでした

ここで、北条家が、納得せずに

北条家が、敵対したら、織田と同盟を結ぶことは

分りきっています

そうなれば、越前、加賀も、手に入れても

武田家の危機は、変わりません

織田、徳川、北条に、同時に攻められたら

信濃、甲斐もひとたまりもありません

北条家を納得させることが

絶対の条件だったのです

 

それで、勝頼は、上杉景勝に

新たに東上野を、北条家に割譲させ、

上杉影虎に、関東管領を譲るように

求めました

それが、武田勝頼の調停案だったのです

 

それで、それを、坂戸城にいる

北条氏照・氏邦に、伝えると

武田勝頼の裏切りに怒っていた

北条氏照・氏邦も、乗り気になると

早速、北条氏政に指図を仰ぎました

武田家は、景勝についたといっても

まだ、影虎や北条とは一戦も交えていませんでした

武田勝頼は、真田昌幸にも、それを厳命して

海津城まで、武田軍を控えていたのが

功をそうしたのです

 

また、成り行きをみていた北条氏政も

その武田勝頼の調停案に賛同しました

自分が、上杉影虎の援護が遅かったのは

棚に上げて、武田勝頼の裏切りに怒っていた

北条氏政も、武田勝頼が、加賀、越前を支配し

甲斐、信濃、駿河に攻めてきた織田軍を

追い出したことを知ると

武田勝頼に対する見方を変えていました

長篠の戦で大敗した勝頼を侮っていましたが

それは誤りだったことに気がついたのです

 

しかも、実際に、武田勝頼は、越前、加賀、越中半国

合計120万石を新たに手にして

武田家は、従来の甲斐、信濃、駿河、西上野を含めると

230石以上の大名で、北条家も凌ぎます

その武田家と上杉景勝が、同盟して

関東の北条家を攻めたら

北条家の関東の地位も危ないです

北条氏政も武田家の同盟を守りたかったのです

 

それに、武田勝頼が、調停案で示した

東上野割譲の案も悪くはありませんでした

東上野は、30石もある上に

影虎側、北条側が、その大半を抑えたと言っても

まだ、景勝派も残っていて

完全に抑えていませんでした

それが、完全に手に入るというのです

 

その上に、上杉影虎に

関東管領の職を譲るという事は

今後、上杉家、武田家が

関東の北条に侵攻しないということを意味しました

 

そうなれば、上杉家、武田家を心配せずに

北条家は、関東平定に、全力を傾けられます

武田勝頼が、一気に、越前、加賀を支配したように

自分も、里見家、宇都宮家を支配することも

夢ではありません

北条氏政も、納得する案だったのです

 

それで、北条家も同意したという報告があり

武田勝頼は、それを、御館にいる上杉影虎に、

今度は、申し出ました

 

でも、それは、上杉影虎にとっては

なかなか納得できない事でした

武田勝頼が、上杉景勝の味方になって

自分を裏切ったことは許せなかったのです

 

だけど、現実は、武田勝頼が

強大な力を持って、上杉景勝の味方に付いていますし

北条家も、まったく当てになりません

ここで、自分が、この調停案を蹴っても

北条家に、身捨てられることを悟ったのです

 

しかし、ここで、問題なのは

上杉影虎が、この調停案を受け入れたとしても

一体、どこに、居場所があるかという事です

越後内に留まっていたら、雪が降って

北条家の援軍が、出せない時に

上杉景勝に攻められたら

ひとたまりもないことが分っていたのです

 

けれど、武田勝頼は、そんな上杉影虎に

驚く案を提供しました

西上野の武田領、半国、10万石

箕輪城を、上杉影虎に割譲することを

申し出たのです

 

それで、上杉影虎も納得しました

10万石を手にすることができたら

自分を支持してくれた家臣も

納得させることができたのです

 

こうして、上杉影虎を納得させると

武田勝頼は、上杉景勝に、この調停案を

申し出ました

もし、この案を、上杉景勝が

納得しなかったら、上杉影虎の味方になって

能登、越中を支配し、越後を影虎に与えると

武田勝頼は、言っており、逆らう事はできなかったのです

こうして、御館の乱は、10月になると終わりました

激しかった上杉家の内乱は

武田勝頼が付いた、上杉景勝の勝利で

終わったのです

 

∞「武田勝頼とその後の

上杉景勝、上杉影虎」∞

 

天正6年、10月3日、謙信公の二人の養子

景勝と影虎による上杉家の内乱は、見事に終わりました

上杉影虎は、西上野の箕輪城を与えられて

元関東管領、上杉憲政と一緒に、御館から去っていったのです

 

しかも、12月には、武田勝頼の妹、菊姫も

春日山城の景勝の元に、無事に嫁ぎました

武田家と上杉家の同盟は、正式に成立したのです

 

 

でも、武田勝頼は、この二人が、心から納得しないと

この調停が、本当に成功していないことを

理解していました

 

何故なら武田勝頼は、上杉景勝、北条氏政との

三国同盟を考えていました

それで、上杉景勝には、特に期待していましたし

北条の抑えとして、関東管領職のある上杉影虎も必要でした

二人を、心底、武田家の味方にする必要があったのです

 

それで、武田勝頼は、上杉影虎を箕輪城から

自分が、今滞在している城

海津城に招いたり

上杉景勝の側近、直江兼次を、何度も

海津城に招いたりして

二人の和合に努めました

海津城で、上杉影虎と直江兼次を

会わせたりもしたのです

 

その上で、勝頼は、自分の父、信玄公が、

上杉謙信を信頼していて

自分の死後、上杉謙信を頼るように

遺言をしたという話をしたり、

上杉謙信公が、信玄の死んだ時も

長篠の戦で、大敗した時も

信濃に、攻めてこなかった事に

心から感謝していることも話しました

 

それで、武田勝頼は、上杉謙信公の話を

二人から、好んで聞いたりして

武田家と上杉家の和解を努めると

亡き上杉謙信公が、一番、悔やんでいるのは

二人が、いつまでも憎しみ合うことだと言いきかせました

今後は、越後上杉家、関東上杉家として

お互いが協力して、力を合わせて

上杉家の名を高めることも求めたのです

 

また、このことは、影虎や直江兼次を通して景勝にも通じました

二人は、性格は大きく違っていても

上杉謙信の元で、お互いを認め合って仲良くしていました

共に、戦った同志だったのです

 

だから、二人は、多くの家臣を巻き込んだ

上杉家の内乱、御館の乱は、望まなかったし

上杉謙信公の御霊が悲しんでいることも

よく分っていました

義のある戦いではないことは承知していたのです

 

しかも武田勝頼は、越後上杉家と関東上杉家の和合の為に

影虎の妻である景勝の妹、後の清円院や

箕輪城で、清円院とともに住んでいる景勝の母、仙桃院が

度々、春日山城に行くように気配りしていました

景勝の正室、妹の菊姫に頼んでいたのです

その上に、3人の女性を通して、後々、両家の縁組もさせました

妹の菊姫には、残念ながら、子供は生まれませんでしたが

景勝は、信玄公の娘、菊姫を大切にしてくれていて

大きな影響力がありました

女性の力で、両家のわだかまりをとかせたのです

 

それで、名門上杉家、謙信公を尊敬している

武田勝頼の思いは通じて

景勝と影虎は和解しました

両家は、戦乱の時代を乗り越えることが

できたのです

 

何故なら越後の上杉家は、後に、越中と能登、加賀も支配して

武田家に次ぐ、140万石の大名と発展しましたし

関東上杉家も、功を上げて、上野の10万石から

下総一国を支配するまでの大名になりました

しかも、その後も、両家は

子孫の代で、完全に仲直りして

親戚付き合いをすることになったのです

 

また、武田家も大きく発展しました

勝頼は、平成7年3月、本願寺、毛利家の約束通り

越後の上杉景勝の応援を得て

甲斐、信濃、越前、加賀、能登、越中、越後の兵、合計5万で

西近江に進出すると、坂本城まで入り

仁科盛信を大将にした2万で

木津川口の海戦で敗れて、陸海の補給路を断たれて

苦しんでいる石山本願寺や

三木の干殺しで苦しんでいる三木城の別所長治を

毛利家と、協力して助けました

 

それに対して、毛利家や本願寺と

武田家の挟みうちになることを恐れていた織田信長は

西近江での武田家との戦いを、望まないで

本願寺の包囲網や、秀吉に、三木城包囲網を解いたので

簡単に、実行できたのです

こうして、武田家は、本願寺、毛利家と

手を結ぶと、有利に戦えるようになったのです

 

でも、その後も武田勝頼と織田信長の戦いは

しばらくは続きました

武田勝頼は、今まで、自分が

甲斐、信濃、駿河の領民を

戦の連続で、苦しめていたことを自覚していたからです

武田勝頼は、戦を控えて、領内を固めることに専念したのです

 

だけど、そんな二人の戦いは

毛利攻めを焦った織田信長が

本能寺で、明智光秀の謀反で

討たれるという事件が起きた時に終わりました

その後の天下は、どうなったかは

皆さんの想像にお任せして

この勝頼の物語を終わりたいと思います


280号 武田勝頼と御館の乱

281号 武田勝頼越前を取る

282号 武田勝頼御館の乱を治める

284号 今、超幸せです

   済度ご紹介コーナーに戻る



   縁の花 全号紹介コーナー


  縁の花 トップページに戻る


  キクとバーチャルの仲間のブログサイト


2011年 縁の花お手紙

すべての読者の皆様に緊急連絡

 

『この縁の花を読んで頂いている皆様へ

緊急連絡です

2010年、12月23日〜26日

金沢済度の旅をした事で

俺は、2011年〜2012年12月23日

俺の50歳の誕生日で

フォトンベルトに突入するとか

マヤ歴の予言でも

人類が滅亡するかもしれないと言う日まで

俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました

 

と言うのも、俺は、1993年10月1日

18年前に、何故縁の花を書き始めたのか

この世で、皆さん、一人、一人と

何を約束したのか

全部、明快に分かったからです

 

しかも、長年探し求めていた

日本や世界、人類を救う方法も

その手段も分かりました

答えは、すべて縁の花の中

皆さんにあったのです

 

だから、俺は、それを

この2年間という短い期間の間に

皆さんに、伝えきるつもりです

皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる

目には、見えない存在を救い切る覚悟です

 

是非、キクの命がけのお願いです

「2011年、縁の花の読者の皆様へ

キクの命がけのお願いの手紙」

をお読み頂きたいと思います』

 

2011年 縁の花のお手紙サイト

http://www.geocities.jp/ennohana/2011ennohana/ennohana1.html