縁の花

(21世紀に咲く智恵の輪)

第300号

関ヶ原の戦い済度

石田三成、徳川家康に勝つ

∞「石田三成、法で

徳川家康に勝つ」∞

今日は、2009年9月15日です

また、今日は、今から409年前の1600年に

関ヶ原の戦いが起きた時でもあります

フリー百科事典『ウィキペディア』によると

「安土桃山時代の慶長5915

美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を

主戦場として行われた野戦が行われ

関ヶ原における決戦を中心に、日本全国で戦闘が行われた

徳川家康の覇権を決定付けた戦いである」

とあります

 

しかし、実は、俺が、9月15日に

関ヶ原の戦いが起きたということを知ったのは

今日の朝、眞朝 の4時半に

済度瞑想をした時でした

 

いつものように

「今日は、何の日」の資料で

9月15日に起きた歴史事件を

見ている時に、

1600年関ヶ原の戦い。徳川家康の東軍75千人が

豊臣方・石田三成の西軍128千人に勝利」

と書いていることを知って

本当に、驚いてしまったのです

 

と言うのも、俺は、今日から

まったくの偶然ですが

関ヶ原の戦い済度として

石田三成、直江兼続と

徳川家康との戦いを書くつもりでした

俺の、得意の技

シミュレーション小説

逆転小説を書くつもりだったからです

なので、このシンクロ

時の見事な一致に驚いたのです

 

また、この関ヶ原の戦いですが

読者の中には、歴史に詳しい人もいると思うので

少し、説明すると

関ヶ原の戦いは、

有名な小早川秀秋の裏切りで

西軍が負けて

石田三成、小西行長は捕えられて処刑され

西軍に加わった大名の多くは改易や減封の

処分を受けています

 

しかも、豊臣家も、徳川家康と直接戦っていないのに

領地の多くを没収されて、天下の覇権を

徳川に騙し取られました

その後、豊臣恩顧の大名は、関ヶ原の戦いで公があっても

豊臣家が、滅亡した後は、次々と改易されています

戦国時代に勝ち抜いた多くの大名や

家臣の運命を変えて

たくさんの人の不幸を生んだ

歴史的な大きな事件なのです

 

でも、俺は、ずっと前から

この関ヶ原の戦いに関して

石田三成が、西軍として、こうやっていたら

徳川家康に勝てたという一つのアイデアがありました

しかも、それは、今までの歴史研究が言っているような

あの時、小早川秀秋の裏切がなかったらとか

いろんなシミュレーション小説の中で

こう戦ったら、石田三成は、勝てたというものではありません

もっと、独創的なものなので

他には、まだ誰も今まで、言っていない策なのです

 

その上に、この策は、一言で言えば

全く戦がないもの、戦わないものです

戦上手な徳川家康に対して

戦はどちらかと言えば、苦手というか

少なくても、多くの戦国大名には

戦に勝利した実績がなくて

下手だと思われている石田三成が

戦という手段ではなく

法という自分の得意な分野で

戦いを仕掛け、勝利するというものです

一兵の兵士の血も流さない戦を仕掛け

見事に勝利するというものです

そんなすごい策があるのです

 

また、俺は、今まで、心の中で

その策をイメージすることというか

時々、そんな思いが出てきて

関ヶ原の戦い後

徳川政権になったことで

結果的に、滅亡した多くの戦国大名や

多くの家臣達を供養していました

 

こんな戦いだったら

皆さんも、滅びなかったので

良かったのにねと

心の中で言って

慰めていたのです

いえ、霊界から、慰めるお役を

させて頂いていたのです

 

でも、それを、文章として

形として、縁の花の号として

インターネットで残して

皆さんに、読んで貰って

皆さんと一緒に、関ヶ原の戦い済度

したかったのですが

なかなかできませんでした

 

 

というのも、正直言えば、豊臣家の御霊達は

早く書いてと言っていた気がしていたので

早く何とかしないといけない

申し訳ないと思っていましたが

他にも、一杯、一杯、書かないことがあって

なかなか、機会がないので

書くことはできなかったのです

 

だけど、大河ドラマ「天地人」で

その関ヶ原の戦いのシーンが

もうすぐ放送されます

石田三成、直江兼続の方から見た

関ヶ原の戦いが始まるのです

 

だから、今年になってから

その時期になったら

俺は、済度として

一種のレクイエム として

成仏を願って書こうと思っていたのです

それを楽しみにしていたのです

 

しかし、そんな俺も

まさか、9月15日に

関ヶ原の戦いが起きた日に

書き始めることになるとは

夢にも思っていませんでした

 

しかも、この日は、本当はある人と

武田勝頼土佐の会の人と金沢に行く予定でいました

昨日の晩から、15日、16日の朝までの計画でした

それが、急に中止になって、行けなくなって

来週の22日から24日の祭日が重なる日に

変更になって

むしろ、よくなったのですが

その反面、俺は、有休を二日間、取っていたので

今更、取り消すこともできなくて

家で、時間があるので、長年の懸案だった

縁の花で、関ヶ原の戦い済度しようと思ったのです

 

だから、本当に、びっくりです

すべては、霊界の計画

シナリオです

霊界のやることすごいです

何でもします

改めてそう思いました

 

では、今から、心をこめて

石田三成の御霊や小西行長の御霊

関ヶ原の戦いで、負けた武将や兵のことを

願って書かせて頂こうと思います

是非、お読み頂けたら幸せです

 

 

∞「徳川家康の横暴」∞

安土桃山時代の慶長5717

かねてより誘っていた毛利輝元が

大坂城西の丸に入城して

西軍の総大将に就任することが決まって

石田三成は、得意の絶頂にいました

大阪城には、西日本、西軍10万の大軍が集まり

石田三成は、挙兵宣言を発することができたのです

 

しかし、ここまで、来るのは

石田三成にとっては

苦渋の連続でした

今、自分が、大阪城にいること自体

奇跡と言ってよかったのです

 

というのも、慶長3年(1598年)

豊臣秀吉が死んでから

それまで律義者として通っていた

五大老の筆頭とは言え

豊臣家の一家臣のはずの徳川家康は

態度を豹変すると

天下取りの野望に向けて

露骨に走り始めました

 

まずは、大名同士の勝手な結婚を

禁止している太閤秀吉の法を破って

次々と、縁談をしようとしたのです

 

でも、その時は、まだ、太閤秀吉に

秀頼のことを任されていた

同じ五大老の筆頭前田利家が、健在でした

前田利家を中心して

徳川家康を除いた他の五大老

毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家や

豊臣政権の五奉行

浅野長政 、石田三成 、増田長盛

長束正家 、前田玄以が

何とか、一致団結して

対抗することで

最大の実力者だった

徳川家康を抑えることができていたのです

 

でも、それも翌年の慶長4年3月

前田利家が、病死すると

豊臣政権は、実質上、徳川家康の

ものになりました

石田三成は、利家の死を知った

同じ豊臣恩顧の家臣だった

武断派の加藤清正・福島正則・黒田長政・池田輝政・

細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長の七将に襲撃されて

その時は、家康の元に、逃げるという機転で

命は助かったものの

家康の仲介で事件の責任をとらされることになりました

奉行職を解任され居城の佐和山城に蟄居となって

大阪城から、去ることになったのです

 

しかも、石田三成が、大阪城から追放すると

徳川家康は、後はやりたい放題です

まずは、伏見城を二男・結城秀康に預け大坂城に入城しました

徳川家康が、伏見城に居ることは秀吉の遺命であったのに

家康は堂々と背いたのです

 

その上に、前田利家の後を継いだ

同じ五大老の前田利長や

浅野長政、秀頼・淀殿側近の大野治長などが

大坂城入城中家康を暗殺するという

陰謀を企てたという言いがかりをつけて

浅野長政は本拠である甲斐府中に隠居を命じ

大野治長は下総結城流罪にしていますし

加賀征伐を計画して

前田家を討とうとしました

前田家を滅ぼそうとしたのです

 

でも、それは、前田利長が

弁明したことで無理があると

判断すると

利長の母、前田利家の妻

お松、芳春院を江戸で人質に

取ることに成功しました

兵を用いずに、前田家を

自分に支配下に置くことに成功したのです

 

また、それに味を占めると

今度は、陸奥会津若松城主である

上杉景勝に目を向けると

会津上杉征伐を計画しました

 

∞「石田三成の挙兵なる」∞

しかし、そんな上杉家の大きな危機は

佐和山城に隠居していた

石田三成にとっては

待ちに待っていた大きなチャンスでした

いえ、最後のチャンスでした

 

何故なら、家康は、大軍を率いて

陸奥、東北の上杉に向かったということは

大阪城に、家康の勢力がなくなって

ガラ空きということです

石田三成は、大阪城に入ることができるのです

 

その上に、天下の眼は

東北、関東に向けられていて

西日本に、徳川家康の目は向いていません

 

だから今、石田三成が、家康の横暴に不満を持っている

宇喜多秀家を味方にして

親友の大谷吉継などの豊臣家の家臣を説得して

西国の雄、120万石の領地を持ち

一族になる毛利秀元 、吉川広家、小早川秀秋などを

含めたら、200石にも及ぶ

毛利輝元を総大将に担ぐことができたら

西日本の大半の大名を味方にして

十分に、徳川家康と戦うことはできます

石田三成は、それを狙ったのです

 

でも、自分に人望がなく

仲間も集められず

毛利輝元を担ぐことに失敗したら

もう豊臣家は、終わりだと思っていました

自分は、処分され

上杉家も、滅ぼされます

 

そうしたら、もう、徳川家康に

逆らう大名は、日本にはありません

後は、大阪城に戻った徳川家康が

豊臣家の大名を各個撃破していけば

もう天下は、家康のものです

 

秀頼が大人になるまでに

豊臣政権を完全に握って

時期が、来たら、豊臣家を

滅亡させるのも簡単です

その時に、豊臣家の為に

戦う大名はいなくなっているのです

 

だから、石田三成は

今、立ち上がらないといけませんでした

絶対に負けられない戦をする決心をしたのです

どうしても自分の親友でもある

上杉家の家老、直江兼続がいる

上杉家を、徳川家の横暴から守る必要があったのです

 

 

でも、その反面

賢い石田三成には、この会津上杉征伐が

年寄りで、この後、いつまで長生きできるか分からない家康が

自分を誘い出して

自分の天下奪取を果たすため

反対派を一掃する罠の可能性もあることを

承知していました

家康の作戦かも知れなかったのです

 

だけど、それでも、家康は

立たざるをえませんでした

大きな賭けに出たのです

 

だけど、その石田三成の賭けは

見事に成功しました

優柔不断な所がある毛利輝元も

家康の横暴と

元毛利家臣で、毛利家の外交を任されていた

石田三成の味方で

安芸武田家の一族の血筋がある安国寺恵瓊の説得で

西軍の総大将になることを承知しました

 

「もし、上杉家が、討伐されたら

次は、当家です

当家も、家康の支配化に置かれますよ」

という安国寺恵瓊に言葉に

毛利輝元は、そのことはよく分かっていて

安国寺恵瓊の考えを拒否できませんでした

 

大藩、毛利家を守る為には

家康だけには、天下を取らせるわけにはいかない

東国で、まだまだ農地からの収入を基盤にしている

遅れている徳川家が、天下を取ったら

貿易を中心している豊臣家とは違って

大藩、毛利家の存在を許すはずがないことを

ある意味、賢明な毛利輝元は、よく分かっていたのです

 

だから、毛利家は、西軍につきました

吉川広家などの一族の中には

反対する人物もしましたが

毛利輝元は、徳川家康と一戦する

覚悟したのです

 

また、毛利輝元が西軍についたことは

本当に大きかったです

これと、石田三成が712

自分の居城、佐和山城で

大谷吉継、増田長盛、安国寺恵瓊と秘密会議を行い

滋賀県の愛知川に東軍に参加予定の諸将を

食い止める関所が設けたことで、

長宗我部盛親、鍋島勝茂、前田茂勝(玄以の子)らが

足止めを食らい、結果的に西軍への

参加を余儀なくされたこともあって

西軍は、一気に10万以上になりました

石田三成が、少し得意げになるのも

無理はなかったのです

 

しかも、それは、家康の予想を

遥かに超える兵の数でした

家康は、人望のない石田三成がたっても

大半の西国の大名は、静観すると思っていました

ましてや、あの優柔不断の毛利輝元が

西軍の総大将になるとは

夢にも思っていませんでした

 

精々、石田三成の味方になるのは

豊臣家の家臣の一部と

五大老の一人、宇喜多秀家ぐらいで

立ち上がったら

上杉征伐を中止して

石田三成を叩き潰し

それを理由に、豊臣家も

抑えようとしていたのです

 

ですから、家康にとっても

石田三成の挙兵に

西軍が10万以上も集まったという知らせは

大変な脅威でした

計算違いに驚いたのです

 

しかし、家康は、それでも

石田三成との戦に自信満々でした

いろんな戦に勝利してきた家康には

石田三成の元では、西軍が

決して一枚岩でなれないことは

分かっていたのです

 

それで、家康は自分の予想していたように

石田三成が、動いたのを知った

7月21日に、江戸城を発つと

7月24日、下野小山に到着

ここで、石田三成の挙兵を知ると

25日に今後の方針について

会津征伐に従軍した諸大名を招集して軍議を催しました

後に有名になる「小山評定」です

 

ここで、動揺する豊臣家の大名達を

うまく石田三成憎しで動いている最有力の福島正則達を

説得することで、大半の大名を味方にして

三成迎撃で評定が決定すると

会津上杉征伐を中止すると

江戸城に戻る決断をしました

 

江戸城で、しばらく

豊臣恩顧の武将たちの動向や

西国の大名の動きをはっきり掴んで

一気に、石田三成率いる西軍を破り

天下を我がものにしようとしたのです

 

しかし、そんな家康にも一つだけ気がかりがありました

それは、京都に残した鳥居元忠が預かる伏見城の兵達のことでした

石田三成が、挙兵したのであれば

真っ先に、落とす必要がある城なのに

戦になったという報告はありませんでした

 

西軍の毛利輝元と石田三成と意見が違っているのか

西軍は、伏見城を攻撃しようとはせず

ずっと、大阪城から動かないという報告に

今までの、自分が経験してきた戦と

何かが違う違和感を持ちながら

江戸城に、東軍を向かわせていたのです

 

 

 

2009年9月15日 


300号 関ヶ原戦い済度

 

301号軍師大崎玄蕃石田三成にツク

 

302号徳川家康敗れる

 

303号大崎玄蕃語る

 

304号大崎玄蕃と徳川家康


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2011年 縁の花お手紙

すべての読者の皆様に緊急連絡

 

『この縁の花を読んで頂いている皆様へ

緊急連絡です

2010年、12月23日〜26日

金沢済度の旅をした事で

俺は、2011年〜2012年12月23日

俺の50歳の誕生日で

フォトンベルトに突入するとか

マヤ歴の予言でも

人類が滅亡するかもしれないと言う日まで

俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました

 

と言うのも、俺は、1993年10月1日

18年前に、何故縁の花を書き始めたのか

この世で、皆さん、一人、一人と

何を約束したのか

全部、明快に分かったからです

 

しかも、長年探し求めていた

日本や世界、人類を救う方法も

その手段も分かりました

答えは、すべて縁の花の中

皆さんにあったのです

 

だから、俺は、それを

この2年間という短い期間の間に

皆さんに、伝えきるつもりです

皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる

目には、見えない存在を救い切る覚悟です

 

是非、キクの命がけのお願いです

「2011年、縁の花の読者の皆様へ

キクの命がけのお願いの手紙」

をお読み頂きたいと思います』

 

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