縁の花

(21世紀に咲く智恵の輪)

第302号

関ヶ原の戦い済度

徳川家康敗れる

∞「徳川家康の苦悩と

黒田如水の嘆き」∞

徳川家康が、同じ五大老の毛利輝元と宇喜多秀家の二人や

豊臣政権の増田長盛・長束正家・前田玄以の三奉行

堀尾吉晴・生駒親正・中村一氏の三中老の

全員の連盟による

「すべての戦を中止せよ

今後、戦をして

太閤秀吉公が作った法を破ったものは

厳罰に処する」

と命令している文を読んだのは

25日の翌日の26日

「小山評定」で、石田三成の挙兵に対して

石田三成や西軍の総大将毛利を討つと決まって

東軍を江戸城に向けた時でした

 

また徳川家康は、それを知ると

五大老筆頭の自分を無視して

そんな命令を勝手に出した

毛利や宇喜多に激怒しました

そんな命令は、認められないと

豊臣の使者に告げると

無視を決め込んだのです

 

しかし、大阪城にいない徳川家康は

それ以上のことはできませんでした

どうすることもできなかったのです

 

しかも、「戦はやめよ」という命令は

家康についていた東軍の多くの大名に

衝撃を与えました

豊臣家の使者は

徳川家康の認めない

という言葉を無視して

他のすべての戦国大名に

豊臣家からの命令の文を

渡したからです

 

その上に、徳川家康は

それを止めることはできませんでした

他の大名は、徳川家康の家臣ではなく

あくまでも豊臣家の家臣です

豊臣家の使者が渡す命令書を

見るな、受け取るなということは

できなかったのです

 

また、その豊臣家の命令は

全国の大名に発せられて

各地の大名に衝撃を与えて

早速、大きな効果が現われました

 

というのも東北では

西軍の上杉軍と東軍の最上軍、伊達軍の間で

戦が開始されようとしていましたが

豊臣家の「戦は中止せよ」という命令が届くと

早速に、両軍は和議をしました

義を重んじる上杉家は、その命令が届くと

直ちに、戦を中止して、兵を引き返し

最上家、伊達家も、それに従ったのです

 

その上に、豊臣家は、その命令を守らせる為に

目付までも、派遣してきたので

最上家、伊達家は、徳川家康に

断る事もなく

さっさと兵を引きました

東北の戦の危機は、一瞬で終わったのです

 

しかも、それは東北だけではありませんでした

北陸でも、東軍の前田利長と西軍の丹羽長重が

激しく戦おうとしていましたが

豊臣家の命令が届くと

あっさり、和睦して戦は起こりませんでした

前田利長は、徳川家康に対して

内心は、反発していたので

豊臣家の命令を幸いに

戦を中止したのです

 

そしてそれは、四国や九州でも同じでした

四国では、毛利家が

伊予の加藤嘉明の松前城を攻撃していましたが

7月23日には、戦を中止せよと言う命令が

毛利輝元から届いていて

すぐに攻撃は中止されました

戦は起きなかったのです

 

また九州でも、戦は、豊臣家の命令書が

届いた瞬間終わったと言われています

何故なら、天下取りを密かに狙っていた

秀吉の軍師だったことでも有名黒田如水は

その豊臣家からの命令書を

一目見ると、すべてを悟ったと

言われているからです

しかも、黒田如水は

この戦は、西軍の勝利だと断言すると

天下には、自分を凌ぐ軍師がいると

一言寂しそうに言ったと言われています

 

というのも、黒田如水は、東軍につくと

中津城に蓄えてあった金品や兵糧を惜しげもなく放出し

それに釣られて集まってきた浪人を中心に

3500余りの俄か作りの軍勢を作って

西軍に属する福原長堯・熊谷直盛などの

領土にも攻め込み、豊後を平定しようとしていました

 

その上に、黒田如水の野心は

それだけではありませんでした

豊後などの九州の北部を支配すると

その後は、同じ東軍の加藤清正も破り

九州の大半を一気に支配して

本土に大軍を向けると

西軍と東軍で、激しく戦っている戦に参入して

家康、輝元、三成を討って

天下を自分のものにしようとしていました

秀吉に天下を取らせた天才軍師だった黒田如水は

この日本の内乱は起きるとある程度長引くと予想していたのです

 

だから黒田如水をもってしても

この内乱が、たった1枚の命令で

終わるとは、夢にも思っていないことでした

一体、誰がこんな策を考えたのか

石田三成か

いや、官吏的な石田三成に

こんな独創的な事を考えることは無理だ

いったい、どんな軍師が

俺を遥かに凌ぐ軍師が

誰についたのだ

黒田如水は、そう嘆くと

天は、俺には天下を取らさなかったと言って

豊後の福原長堯・熊谷直盛との戦の準備を中止して

天下取りの夢をあっさり捨てると

中津城に戻ると、引き籠ってしまったのです

 

∞「徳川家康追い詰められる」∞

8月1日、江戸城に戻っていた

徳川家康は、大きな苦悩の中にいました

豊臣家の使者は、毎日来ていました

しかも、その命令は、「戦を止めよ」と言う命令から

江戸城にいる諸大名をすべて

国元に帰すようにしろと言う命令に変更していました

五大老筆頭の家康に、堂々と命令しているのです

 

その上、自分が承知していない命令は

従うことはできないと家康が反論すると

「これは、秀頼公の命令です」と

家康が、恐れていた言葉を

豊臣家の使者は言いました

豊臣秀頼の御威光を使ったのです

 

また、そう言われると

さすがの家康も、反論できませんでした

自分が、今まで、散々使っていた手です

まだ幼い秀頼が、そんな事を言うはずがないことは

諸大名の誰もが、分かっていた事ですが

それでも、秀頼が言ったと言われたら

直接、確かめることができない家康は

表面的にでも、従うしかなかったのです

 

しかも、家康が、腹を立てたのは

秀頼公が、本当にそう言ったのか

上洛して、大阪城に入って

五大老筆頭の自分が直接確かめると言った時に

徳川殿、上杉殿、前田殿、石田三成は

秀吉公の定めた戦をしては

いけないという法を破ったので

会津上杉征伐に関しての評定で

結論が出るまでは

その協議に参加することは

できないという使者の返答でした

家康を、毛利、宇喜多の二人の大老と

豊臣家の奉行と三中老で

裁くと言うのです

この時、家康は、完全に

自分は、してやられたことを痛感しました

この戦は、自分の負けたことが分かったのです

 

何故なら、そんな毛利、宇喜多に対して

家康は、これと言った手を

打つことができなかったからです

というのも、家康にとって痛かったのは

西軍の毛利、宇喜多は、戦をまったくしなかったことです

 

これは、7月17日、大阪城で、石田三成から提案された

戦をしないという大胆な案に驚きながらも

その案に賛同した毛利、宇喜多は、計画していた戦を

一切中止させたからです

毛利輝元は、その為に、慌てて

東軍についた四国の伊予の

加藤嘉明の松前城を攻撃する計画や

九州では、大友義統を誘って

黒田如水と戦わせる戦の計画を

取り止めさせていたのです

 

だから、毛利家、宇喜多家は

一切戦を、東軍に仕掛けていませんでした

戦をしていたら、今更、そんな命令に

従えないと突っ張ることができても

両家が戦をしていない以上

家康は、秀頼の命を破ってまでも

西軍に戦を仕掛けることはできなかったのです

 

その上に、大阪城に、勝手に入城して

毛利家、宇喜多家などの西軍を

戦に巻き込もうとした張本人

大悪党という事で

石田三成は、大阪城に監禁されて

神妙に御沙汰を待っているという情報も

家康にも入ってきていました

石田三成は、何と常に白装束の姿でいて

いつでも、切腹の沙汰を

待っているらしいというのです

 

しかし、家康には、それが

毛利輝元、宇喜多秀家、石田三成の三人が

考えた策だということは分かっていました

誰が、考えついた策なのかは

分かりませんでしたが

うまい策です

おそらく、毛利、宇喜多は、石田三成に対して

毎日、取り調べるということ噂なので

その時に、いろんなことを話しているに

違いないのです

 

でも、家康には、武断派の福島正則、黒田長政、池田輝政などが

心から、憎んでいる石田三成が、大阪城に監禁されていることで

大悪党として、西軍からいなくなっていることも痛手でした

いくら、これは、偽りだと言っても

福島正則、黒田長政、池田輝政などにも

それが分かっていても

時が、経過すれば

三成を憎んでいる大名達の戦意が

消失してしまう可能性があったのです

 

いえ、もうすでに、東軍の諸大名の戦意は

無くなっていました

25日、小山評定で、石田三成迎撃を

固く誓いあったのが嘘のようでした

「豊臣家から、各大名は一刻も早く

兵を連れて、帰国しろ」

「従わない大名は、後々処分する」

という脅しの命令が来ると

家康に断って

次々と、大名達は、国元に帰国していきました

各大名は、時勢の流れが

徳川家から、毛利輝元の豊臣家に流れ始めたのを

敏感に感じ取っていたのです

 

ですから、徳川家康は、一度は

そんな劣勢を逆転する為に

8月3日、福島正則、黒田長政、池田輝政などの

石田三成を、憎んでいる豊臣大名達と共に

徳川の大軍、5万を率いて

五大老の筆頭として、上洛しようとしました

強引に、大阪城を目指して

何とか、戦を仕掛けようとしたのです

 

しかし、それさえも

甲斐、駿河の国境で

毛利、宇喜多に依頼された

浅野長政によって

阻まれてしまいました

浅野長政は、豊臣家の旗

千生り瓢箪を掲げた兵を

わずか五十人を並べ

家康軍を見事に追い返してしまいました

家康は、豊臣家と戦をする訳にはいかず

空しく、関東の領地に引き返しました

家康自身の威信は、大きく傷ついたのです

 

∞「裁かれる徳川家康」∞

江戸城に空しく戻った家康に対して

豊臣方は、いよいよ勢い付くと

ますます孤立かを図りました

 

まずは、家康が、大軍で

上洛しようとしたのを

戦をしようとしたのではないかと糾弾し

福島正則、黒田長政、池田輝政など

わずかに残っていた

石田三成憎しでいる豊臣家の恩顧大名を

自国に帰国させることに成功しました

 

家康は、自分を疑っている容疑を

晴らす為にも

福島正則、黒田長政、池田輝政など

最後まで、自分について来てくれた大名に

感謝しながらも

自分で、帰国を進めざる得なくなり

各大名もしぶしぶそれに従いました

 

福島正則、黒田長政、池田輝政達も

石田三成が、今後、自分達を

どうするか、考えると

とても不安でしたが

万策尽きて、帰国したのです

 

また、そんな家康に対して

豊臣方は、今度は、諸大名に対して

家康との一切の連絡を禁止させました

家康の容疑が晴れるまで

内密に、家康と連絡を取っている

大名が分かったら、処罰するというのです

 

しかも、その上で

家康が、前田利家が亡くなった後

再び、再開させた婚姻政策も止めさせ

前田征伐をしようとしていた時に

中止するのを条件に

人質に取っていた前田利家の妻

前田利長の母お松、芳春院を

金沢に戻すように命令していました

 

いえ、それだけでなく

他にも、人質を取られている大名を調べ

すべて帰国させるように命令して

8月末までに、渋っていた家康に

とうとう実行させました

完全に、徳川家に味方する大名を取り除き

徳川家康を、自分の領地である関東255万石に

閉じ込めることに成功したのです

 

そして、その上で、豊臣方は

いよいよ、9月15日

今回の戦の大きな原因になった

上杉景勝や徳川家康を大阪城に呼び

大阪城に監禁している石田三成と共に

毛利と宇喜多の二大老

豊臣家の三奉行と三中老によって

会津上杉征伐をしようとした事と

大阪城で、石田三成が、諸大名に

戦を呼び掛けた罪を

裁くことを決定しました

 

徳川家康に対して

最大1万までの軍勢を率いて

9月9日の重陽の節句までに

大阪城に上洛するように

9月1日に、命令したのです

 

しかし、それは、徳川家康には

とても飲めないことでした

大阪に、わずか1万の軍勢で入っても

家康ができることは何もありません

大阪には、毛利、宇喜多を中心とした軍勢が

10万以上集まっていて

戦上手の家康とは言っても1万では

戦にはならないのです

 

しかも、大阪城に入ることはできるのは

家康一人しか許されませんし

味方してくれる大名もいません

 

何故なら、自分の味方をして情報を送ってくれていた

三奉行の一人増田長盛からの情報も途絶えましたし

秀吉の妻、北の政所なども、家康と連絡とろうとは

しなくなっていたのです

その上に、豊臣が、上杉、徳川以外の

東軍に参加した諸大名を評定の裁きに呼ばないということは

他の大名の罪は、一切、不問にすると言うことを

意味していました

これでは、福島正則、黒田長政、池田輝政などの大名も

自分の味方をするはずがないのです

 

だから公平に評定すると言っても

家康には、もう結果は見えていました

最悪、自分は、責任を取って自害させられ

徳川家255万石は改易して

豊臣に取り上げられることになる可能性が大でした

いえ、自分なら、絶対にそうすると思っていたのです

 

でも、それでは、行かないとどうなるかと言えば

ますます、不利になることは明白でした

上杉景勝は、豊臣家からの命令が来ると

すぐに、5千の軍勢で、大阪に向かった

という報告も入っていました

このままでいけば

自分は参加できない欠席評定になって

家康がますます不利になることは間違いありませんでした

 

しかも、その評定の結果が

家康が、受け入れられないものであれば

戦になることは必至でした

関東の地で

全国の大名の兵を総結集した豊臣軍との戦

第2回北条征伐の再来になるのです

 

でも、家康は、その戦に勝てる自信は

まったくありませんでした

あの時に、北条氏を支えた巨城

小田原城はもうありません

本城を江戸城にしたことで

小田原城は、規模を遥かに小さくしていますし

江戸城は、わざと小さな城にしていました

豊臣軍、20万の大軍を

くい止めることができる城

拠点は関東にはまったくなかったのです

これでは、野戦に持ち込むと言っても

作戦を簡単に見抜かれて

勝負には、ならなかったのです

 

それで、結局、徳川家康が取った手は

病になったので

大阪城に行けなくなったと

言う口実で丁寧に断って

家康の裁きが決定した後の

豊臣政権と徳川家の存亡をかけて

交渉することでした

何とか、外交で、徳川家を残そうと

必死の覚悟をしていたのです

 

300号 関ヶ原戦い済度

 

301号軍師大崎玄蕃石田三成にツク

 

302号徳川家康敗れる

 

303号大崎玄蕃語る

 

304号大崎玄蕃と徳川家康

 

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2011年 縁の花お手紙

すべての読者の皆様に緊急連絡

 

『この縁の花を読んで頂いている皆様へ

緊急連絡です

2010年、12月23日〜26日

金沢済度の旅をした事で

俺は、2011年〜2012年12月23日

俺の50歳の誕生日で

フォトンベルトに突入するとか

マヤ歴の予言でも

人類が滅亡するかもしれないと言う日まで

俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました

 

と言うのも、俺は、1993年10月1日

18年前に、何故縁の花を書き始めたのか

この世で、皆さん、一人、一人と

何を約束したのか

全部、明快に分かったからです

 

しかも、長年探し求めていた

日本や世界、人類を救う方法も

その手段も分かりました

答えは、すべて縁の花の中

皆さんにあったのです

 

だから、俺は、それを

この2年間という短い期間の間に

皆さんに、伝えきるつもりです

皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる

目には、見えない存在を救い切る覚悟です

 

是非、キクの命がけのお願いです

「2011年、縁の花の読者の皆様へ

キクの命がけのお願いの手紙」

をお読み頂きたいと思います』

 

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