縁の花
(21世紀に咲く智恵の輪)
第280号
武田勝頼逆転物語
(御館の乱編)
勝頼と御館の乱
∞「武田勝頼と御館の乱」∞
天正六年六月、武田勝頼は
二万の大軍を率いて越後に入ろうとしていました
しかし、それは、武田勝頼にとっては
信じられない事でした
自分が、父信玄の宿敵だった
あの上杉謙信公の本領、越後に、
軍を率いて、やすやすと
もうすぐは入ろうとしていること自体
とても考えられないことだったのです
しかも、武田勝頼自身
わずか、3月の頃までは、そんなことは
夢にも思っていませんでした
いえ、むしろ、武田勝頼は
上杉謙信公と同盟を結び
上杉謙信公が、北陸から、織田信長と戦う為に
上洛戦をする時には、
二万の大軍を率いて
美濃に侵略するつもりでした
従来のルートであった遠江、三河は
徳川家康の強さは、十分に分っていたので
駿河と東信濃の守りを固め
兵の弱い、織田家との一戦に
武田家の命運をかけるつもりでした
ここで、上杉謙信が、越前で
織田信長を破ったら
自分も、岐阜城を占領して
美濃を支配するつもりでしたし
自分が、織田軍を破って
美濃を抑えたら
上杉軍が、遙かに有利になります
上杉謙信と織田信長の勝敗は
美濃の武田軍にかかっているはずだったのです
しかし、関東平定という大義で
越後に、加賀、能登、越中、越後、佐渡、飛騨、東上野
などから5万6千もの軍を集めようとしていた
上杉謙信は、直前の三月九日に倒れ、
その後、意識が戻らず、十三日に急死しました
今となっては、その時の上杉謙信公が
関東の北条を攻めて
小田原城に押し込めてから
北陸に向けるつもりだったのか
関東平定は、策で、最初から
越前を攻めるつもりだったのか
武田勝頼には、分かりませんが
とにかく、上杉謙信公が、病に倒れたことは
ショックでした
父、信玄公が、亡くなった後
浅井、朝倉は、一気に滅亡して
信長包囲網が崩壊したように
今度も、信長が、ものすごく有利に
なったことはよく分ったからです
このままでは、大変な事になる予感が
武田勝頼にはあったのです
しかも、上杉謙信公は、世継ぎを決めていない為に
謙信公の姉の息子、景勝と、北条家からの人質だった上杉景虎
二人の養子が争う事になりました
御館の乱と後に言われるものです
その事で、同盟を結んでいる、妻の北条夫人の兄
北条氏政からは、自分の実の弟、氏康の七男
上杉景虎支援の要請が入って
武田勝頼は、すぐに、上杉景虎支援を承知すると
武田信豊を先方に、二万の大軍を向かわせました
早く、上杉景虎に勝利させて
御館の乱の混乱を終わらせないと
織田軍に、上杉領土の加賀、能登、越中を支配されて
上杉家は、弱体してしまいます
そうなれば、武田は、織田、徳川という強敵と
単独で、戦わないといけないので
大きな危機を迎えることが、明白だったのです
しかし、ここで、勝頼には信じられないことが
起きました
自分に支援を求めた肝心な北条家の動きは鈍く
越後に、兵を向けようとしません
一体、弟の上杉景虎を、支援する気があるのか
疑わしかったのです
また、その事で、上杉景勝と上杉景虎の戦いは長引きそうでした
戦いは、武田、北条、蘆名などの大名の支援を受けている
上杉景虎が、有利に進んでいましたが
上杉家では、北条の血が流れている上杉景虎よりも
上杉謙信の姉、仙桃院の長男で、上杉家の血が流れている
上杉景勝の方を支持している家臣の方が
圧倒的に多かったですし
上杉謙信公の本城、春日山城も
上杉景勝が押さえていました
武田家が、上杉景虎を支援しても
すぐに治まるとは思えなかったのです
だから、武田勝頼には、北条氏政の考えが
理解できませんでした
北条家が、武田家と同じように
越後に入れば、上杉景虎有利という事で
なだれを打って、上杉家の家臣も
上杉景虎についたはずです
そうすれば、上杉景虎に、恩も売れて
北条氏政は、七男の上杉景虎を通して
上杉家に対して、大きな影響力を
及ぼすことができるはずでした
上杉家を傘下に入れることも可能だったのです
また、その時は、上杉家、北条家に
東と北を抑えられることになる武田は
生き残るために
北条家の属国扱いになる屈辱も
受け入れるつもりでした
そうしないと織田、徳川の脅威から
武田家を守れないのなら
何でもするつもりだったのです
しかし、北条氏政に、こんな事も
理解できない力量しかなかったら
例え、武田が、北条家の属国になっても
織田信長から、武田家を守れるとはかぎりません
むしろ、織田信長に騙されて
北条家の安堵を条件に
織田に、売り渡されるかもしれません
武田勝頼には、北条氏政を信じることは
できなくなっていたのです
そんな時です
先方の武田信豊から
上杉景勝の側近、直江兼次というものから
ある提案があったというのです
∞「武田勝頼の決断
黄金一万両受け入れる」∞
武田軍の先方を任せている武田信豊から
海津城に待機している勝頼に
上杉景勝の側近、直江兼次という名前も
聞いたことがない武将からの
武田家、上杉家、和睦する条件提示があったという
知らせが来たのは、六月の初旬でした
しかも、その条件は、驚くほどよかったです
まず、黄金一万両を、武田に贈ること
信濃の上杉領と東上野の上杉領を割譲すること
勝頼の妹(お菊料人)を、景勝の正室として
迎えたいという事でした
直江兼次は、それで、信玄公、謙信公の時
激しく戦った、両家、甲越の同盟を申し入れてきました
偉大な信玄、謙信でもできなかった
両家の和解を成し遂げようと口説いてきたというのです
その上で、上杉は、武田の家臣になると
勝頼の心を擽るようなことさえ
平気で言ったというのです
しかし、武田勝頼にしても
その参謀として、勝頼に側についていた
真田昌幸や曽根昌世にしても
側近の跡部勝資や長坂釣閑斎にしても
その直江兼次の提案に応じるつもりはありませんでした
勝頼にしても、武田家の家臣団にしても
上杉景勝を応援することで、もう一人の養子
北条氏の血を持っている上杉景虎を敵にして
関東の雄、北条氏を敵にすることが
どんな意味を持つことになるのかは
よく理解していました
長篠の戦での大敗北以後
何とか武田家を建て直す為に
北条氏康の六女、歳若い北条夫人を
勝頼の正室と迎えて
北条家との同盟を強化したのです
その北条との同盟が崩壊したら
武田は、西に、織田、南に徳川、東に北条と
三方から攻められることになります
どんな条件を、上杉景勝から提示されたとしても
飲むつもりはなかったのです
しかし、そんな大胆な条件を提示してきた
直江兼次や上杉景勝に
勝頼は、注目しました
特に、どこまで知っているのかは分りませんが
信玄公の代で、金山の多くを掘り尽くした
武田家は、軍資金の欠乏には悩んでいました
そこをついたのか、黄金一万両は
喉から手が出るぐらい欲しかったのです
それで、勝頼は、その上杉景勝の条件を利用して
もう一人の相手、上杉影虎との条件をよくしようとしました
早速、上杉影虎に使者を送って
条件を有利にしようとしたのです
でも、上杉景虎からの条件は
勝頼を満足させるものではありませんでした
春日山城を出ている上杉景虎には
黄金を持っていませんでしたし
北条家のこともあって
東上野の割譲する話もありませんでした
そればかりか、上杉家の家臣のことを思ってか
信濃の上杉領さえ、割譲を渋っていました
どうやらそれを交渉材料にしている感じだったのです
だけど、それは勝頼には不満でした
信濃の上杉領を得ただけでは
二万の大軍を率いていた意味はありません
勝頼は、失望しました
上杉景虎は、実家の北条家からの援護を得られることで
優勢なことで、武田家に対しても
それほどの条件をよくするつもりはなかったのです
しかし、それでも勝頼は、北条家が動けば
その条件を飲むつもりでした
北条氏政に何度も使者を送って
早く、越後への侵攻を強く求めたのです
けれど、北条氏政からは
了解したという返事は来ても動きはありません
関東の動きを調べさせている
忍者、物見からの報告では
別段、何の動きもないとのことだったのです
しかも、そんな武田軍に対して
早速、三河、遠江の徳川家康が、駿河に攻めようとしたり
織田信長も、動き始めたという情報も入ってきました
いつまでも、越後に留まっていることは
不可能な情勢になって来たのです
また、越後内の戦いでも
北条家からの援軍がこないことがあって
戦いは、上杉景勝側有利になる可能性もありました
武田軍が、景勝を応援しなかったら
上杉家臣団の多くから、支持されている
景勝が勝つ可能性もあったのです
それで、6月12日、勝頼は
越後にいた、信豊を、海津城に
呼び寄せて、軍議することにしました
この時に、本気で、景勝の条件を受け入れて
景勝と同盟を結ぶか、家臣達と話し合ったのです
また、その軍議では、景勝との和睦も仕方ないという事でした
このまま、越後にいても、上杉家の内乱、御館の乱の決着はつかない
武田家としては、二万の大軍を、越後を派遣した以上は
とるものをとらないといけない
そうしないと、国内で、待っている穴山信君や
武田信廉などの、御屋形様の親戚衆に、何を言われるか分からない
だから、徳川が、駿河に攻めてきたので
ただ、空しく撤退するよりは、せめて黄金一万両を頂いて
その上で、景勝、影徒の戦の様子を見て
北条勢がまだ、動かなかったら
景勝が、勝つようだったら
他の東上野の割譲と、妹君の菊姫様と景勝との婚姻を進めて
上杉との同盟を決めようという
巧みな真田昌幸の策に、感心を持ちました
さすがは、父、信玄公が、期待をかけて育てていた
愛弟子の一人、
勝頼にも、それが、最善の策と思えたのです
だから、勝頼は、6月12日の軍議で
景勝から、黄金一万両を貰って
和睦したと言っても
越後に攻め込まないだけで
この時には、まだ、影虎の形勢が有利だったら
影虎の味方をするつもりだったのです
しかし、それは、勝頼にとっても
武田家臣団にしても、大きな決断でした
北条家を敵にしたら、武田は滅亡します
誰にも、その決断が正しいのか、どうかわかりません
勝頼は、真剣に、海津城で
一人で悩み、決断することになったのです
∞「武田勝頼 高坂弾正
の御霊と会話する」∞
武田勝頼は、海津城で、一人で苦悩していました
上杉景勝から黄金1万両を貰って
上杉景勝と和睦を進めるか、どうかです
一端、そう決断したら、武田家は、上杉景勝との同盟へと
急速に関係を深めることになります
そうすれば、上杉影虎を応援している
北条家を裏切ることになって
北条家との同盟を破棄する事になります
北条家を敵にする可能性が高くなるのです
そうなれば、武田家は、滅亡する事になるのです
また、勝頼は、そうならないように
上杉影虎側が、戦に不利になれば
上杉景勝と上杉景虎の調停に努めるつもりでした
何としても、上杉景虎の命は守りたかったのです
しかし、この戦国時代に
家督を巡って争っている
養子同志の間に、和睦などが実現するか
勝頼には自信がありませんでした
例え、上杉景勝、上杉景虎の二人が、
それを望んでも、家臣が許すはずがありません
どちらかが、討たれることになります
今まで、対立したり、裏切ったりした家臣も
許したことのある上杉謙信が治めた
上杉家だから、調停できる可能性もありましたが
勝頼には、上杉景勝や側近の直江兼次が
どう思っているのか分らなかったのです
だから、勝頼の御館の乱での決断は
武田家の命運をかけた綱渡りでした
でも、武田家を守るためには、その綱渡りを
渡らないといけなかったのです
また、勝頼は、この二、三日ずっと
父信玄公ならどうするだろうかとか
つい最近まで海津城の城主で
長篠の戦に参加しなかったので
生き残った武田四重臣と呼ばれ
勝頼にも、何でも言いたいことを言いながらも
武田家のことを本当に考えてくれていた
高坂弾正なら、どうするだろうかと考えていました
というのも、高坂弾正は、北条家の同盟を強く勧め
信玄の遺言だった、上杉謙信公に頼ることも
勝頼に勧めていました
勝頼にとっては、少し煙たい家臣ではありましたが
とても頼りになる存在でした
長年、信玄公の側近として、使えていたので
もっとも、信玄公の考えにもちかいと言われ
勝頼は、内心頼りにしていたのです
でも、その高坂弾正も、上杉謙信公の急死を知った時に
意気消沈したのか、あっけなく病死しました
勝頼は、高坂弾正の意見を
聞くことはできなかったのです
それで、勝頼は、悩んでいました
勝頼にも、信玄が育てた真田昌幸や曽根昌世など
優れた家臣がいましたが、高坂弾正の意見も聞きたかったのです
しかし、そんな悩んでいた勝頼に
武田家の御霊は、身捨てませんでした
一人で、部屋で、座禅を組んで考えている勝頼に
御屋形様は、何をしたいのですか
武田家が、滅亡する前に、何をしたいのですか
そう高坂弾正の御霊が、訴える声が聞こえた気がしたのです
また、勝頼は、そんな高坂弾正に
「もう一度、織田信長と合戦がしたい
長篠の戦の敗戦の汚名を晴らしたい
例え、それが叶わず、敗れることになっても
このまま朽ち果てて、滅亡するぐらいなら
戦で負けて、滅びたい」と言っていました
勝頼は、万が一、北条家が敵に回ったら
武田家は、一族や家臣の裏切りによって
戦らしい、戦さえ、できない予感がしていたのです
武田勝頼が、あることに閃いたのは
その時でした
高坂弾正の御霊が、
「御屋形様、どうか、織田家とお戦い下さい」
と声が聞こえた瞬間、ある考えが浮かんだのです
また、勝頼は、それで、早速
上杉景勝の出した条件の一つを見直し
真田昌幸、曽根昌世を呼ぶと
このことを相談しました
そうすれば、思いもよらないという事で
さすがの二人も驚きましたが
賛同してくれました
特に、真田昌幸は、自分の領地に
西上野があった為に
それに拘っていて、このことに気がつかなかった
さすがは、御屋形だと感心してくれたのです
その上で、それに、武田家の命運をかけることに
賛同してくれました
二人は、危険な策ですが
やってみる価値はある
自分達も、命がけで
御屋形様にツイテいくと約束してくれたのです
280号 武田勝頼と御館の乱
281号 武田勝頼越前を取る
282号 武田勝頼御館の乱を治める
284号 今、超幸せです
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