縁の花

(21世紀に咲く智恵の輪)

281

武田勝頼逆転物語

(御館の乱編2)

勝頼 越前を取る

∞「勝頼 上杉景勝・

直江兼次と和議を結ぶ」∞

 

武田勝頼と上杉景勝との和議交渉が

本格的に始まったのは、6月27日でした

6月13日、勝頼は、海津城で、武田信豊や

真田昌幸、曽根昌世、側近の跡部勝資、長坂釣閑斎と

今後の武田家の方針を決定した後も

上杉景勝、上杉景虎の戦いの形勢を

見守っていましたが

いよいよ、上杉景勝側に有利になると

2万の大軍で、越後に入りました

考えていた策を実行する決断をしたのです

 

また、そんな武田勝頼を、上杉景勝の側近

直江兼次を迎えると

早速、本格的に交渉を開始しました

ここで、武田家が、上杉景勝の支持を固めると

上杉景勝の優勢は、確定します

でも、和議がならないと

再び、上杉影虎側が優勢になって

勝敗は、上杉影虎勝利で決まります

北条家も、本格的に動き出す可能性があったのです

 

なので、勝頼と直江兼次の交渉は

お互いの存亡をかけた交渉でした

戦いだったのです

 

そして、その交渉の中で

武田勝頼は、妹、菊姫を、上杉景勝の正室に嫁がせることと

その結納金という名目で、黄金1万両を受け取ること承諾しました

でも、もう一つの信濃の上杉領と東上野の上杉領、沼田城などに関しては

意義を言いました

信濃の上杉領の割譲は、当然のことと承諾しましたが

もう一つの東上野は、沼田城などは、北条家に抑えられていると

いう事で納得しなかったのです

 

それで、勝頼が、代わりに求めた土地は

越中半国と能登でした

そこの武田家の割譲を求めたのです

 

だけど、それは、直江兼次にしても

上杉景勝にしても、簡単には飲めませんでした

東上野は、北条家と、国境を面していることで

上杉影虎を支持して、戦っている家臣が多いのに対して

越中、能登は、景勝支持派の家臣がしめていました

その越中、能登を武田家に譲るとなると

越中、能登の家臣が、納得するはずがなかったのです

 

しかし、武田勝頼は、強気でした

交渉の期限を二日間に限定し

その案を飲めないなら、上杉影虎を

本気で支援して

上杉景勝と、2万の武田軍で

戦うことを宣言していたのです

 

それで、交渉は、一端、破談になりかけましたが

武田勝頼の本気を感じた、直江兼次、上杉景勝は

越中半国と加賀なら、承知するという返事を寄こしました

加賀は、今、柴田勝家に攻められて、風前の灯です

武田家は、東上野で、北条家と絶対に争うつもりはない

直江兼次は、上杉景勝が、武田の家臣になるといったのは

嘘なのかという言葉も決め手になったのです

 

しかも、加賀にしろ、能登にしろ、越中にしろ、

上杉家が、内乱で、争っている内に

越前の柴田勝家や飛騨から入った斎藤 利治などの織田軍に攻められて

いつまでも、領土を守れるか、分かりませんでした

ここは、武田家に割譲しようという直江兼次の説得と

勝頼が、能登と加賀の交換に応じたり

加賀、越中の上杉方の武将の領土は

保全することを誓ったので、上杉景勝も決断したのです

 

また、直江兼次には、何故、勝頼が、そう言っているか

その目論見は、もう分っていました

武田家は、大きな賭けに出て

この和議が成立すると、越中、加賀に入り

越前の柴田勝家率いる織田軍と戦うつもりだ

それで勝利して、越前、飛騨も支配する

覚悟だという事にも気が付いていました

そんな勝頼の途方もない計画に

さすがは信玄公の跡取りと、舌を巻いていたのです

 

しかも、その戦で、勝利することは

上杉家にとっても、大きな易がありました

武田家が、越前を支配すれば

北陸からの織田の脅威はなくなります

そうすれば、加賀、越中半国の武田家の援軍も得られて

上杉影虎との戦いも、北条を敵に回しても有利になれます

 

どうせこのままなら、例え、上杉影虎との戦いに勝利しても

柴田勝家に加賀、能登、斎藤 利治に飛騨を抑えられて

勢力を弱体している上杉家の危機は、消えることはありません

むしろ、その時から、上杉家の苦難の戦いは始まる事になるのです

 

 

だから、直江兼次と上杉景勝は、勝頼の策に

自分達も乗って、賭けることにしました

全面的に、協力することにしたのです

 

ですから、2日後の6月29日

武田勝頼と上杉景勝の和議は成立しました

勝頼は、上杉景勝から、黄金1万両を受け取ったのです

 

∞「武田勝頼 柴田勝家に勝利する」∞

 

6月29日、上杉景勝と和睦をして

黄金1万両を受け取った後の武田勝頼の行動は

まさしく風林火山の風と言えるもので敏速でした

 

武田勝頼は、真田昌幸に5千の兵と黄金1万両を預けると

信濃の北側に用心の為に、備えさせると

後の1万5千の兵を率いて

越中、加賀に兵を向けました

約束通りに、取りにいったのです

 

また、そんな武田勝頼に、直江兼次や

上杉景勝派の武将も、何人か、従っていました

それは、人質としての意味もありましたが

景勝の命令を、越中、能登、加賀の武将に

伝えるという意味もあったのです

上杉景勝は、武田軍に協力するように

堅く命令していたのです

 

 

それで、武田軍の動きは

敏速に、隠密に進むことができました

勝頼は、上杉景勝に、内密にしてくれることを求めると

7月1日には、越中の魚津城、7月2日には富山城を通り

約束通り、7月3日には、守山城を受け取り

7月4日には、梨迦羅峠を通って

7月5日には、加賀の津幡城に入ると

柴田勝家率いる織田軍と戦をする為に南下したのです

 

また、それに対して柴田勝家は

傘下の前田利家、佐々成政、不破光治など

越前の2万の兵で、加賀の一向一揆の

司令塔金沢御堂を攻撃していましたが

後一歩というところで、手取川の戦と同様

驚くべき報告を受けることになりました

何と、御館の乱で、戦っている上杉軍が

攻めよせてきたというのです

しかも、その軍の中には、武田軍も

入っているとのこと訳が分らなかったのです

 

でも、柴田勝家は、手取川の戦いのように

ここで、撤退するわけにはいきませんでした

手取川の敗戦の反省から

上杉家の動きを重視して

物見を多く発見していたと言っても

織田信長が、柴田勝家の失敗を

2度も許すはずがありません

 

しかも相手は、上杉謙信ではなく

上杉景勝、武田勝頼です

ここで、再び、撤退するところを攻められて

敗戦するわけにはいきません

野戦で、迎え討つことに決めたのです

 

こうして、7月武田勝頼率いる1万5千と

直江兼次率いる上杉軍7千と

柴田勝家率いる2万の織田軍の戦

金沢御坊の戦が、7月7日、七夕に起きたのです

 

でも、その戦は、圧倒的に、武田勝頼の勝利でした

勝頼は、長篠の戦の汚名を注ぐ為に

織田軍の鉄砲を封じる策も、密かに考えていました

それで、6月13日、柴田勝家と戦をする覚悟をすると

内密に、武田領内で、作らせていた矢玉を防ぐ

竹束をたくさん用意させていました

 

それを兵士に、少しずつ持たせて運び

戦になる前に、組立させると

先方の曽根昌世、高坂軍の前に並べさせると

突撃させたのです

 

だから、織田軍でも、鉄砲に関しては

最強と言われていた佐々成政隊も

前田利家隊も、その力を十分に発揮できませんでした

 

何故なら、あまりにも、急な戦だったので

織田軍は、長篠の戦のように、柵を作ることはできませんでした

その上に、鉄砲も、竹束の為に、接近して距離で

撃っても、十分な力は発揮できませんでした

それに比べて、武田軍の中でも、曽根昌世隊は

竹束を使った戦の訓練もしていたのか

鉄砲だけでなく、矢も上手に使いました

竹束で鉄砲の弾を防ぎながら

矢を上空に放って、織田軍の鉄砲隊を

混乱させることに成功したのです

 

 

また、そうすることで

見事、織田の鉄砲隊を崩して

接近戦、兵同士の戦いに持ち込めば

武田軍に勝てる兵は、上杉軍しかいません

柴田勝家が率いて、越前の兵では

戦になりませんでした

その上に、直江兼次隊には、織田を憎んでいる

一向一揆衆も二千も加わっていました

武田軍は、あっと言う間に

佐々成政、前田利家を破ると

野戦で、圧倒的な勝利しました

 

織田軍は、三千人もの兵を失うだけでなく

殿を任せた佐久間盛政、金森長近・不破勝光などの

有力な武将も討たせるという損害を出しました

それに対して、武田・上杉軍は、二百人程度の

損害しかありませんでした

勝頼は、念願の長篠の戦の汚名を晴らすことができたのです

 

 

しかも、武田勝頼の動きは敏速でした

そのまま、勢い付いた軍を率いて

手取川を越えて、織田領に入ると

電光石火の行動で、南加賀、越前に侵攻し

逃げた柴田勝家を、追い詰めると

九頭龍川を渡り、北の庄に籠城した柴田勝家を

滅ぼしました

 

北の庄城は、信長に、柴田勝家が、越前を任された後に

築城を始めてから二年の年月しか経過していない事もあって

まだまだ、未完成で、武田軍、上杉軍二万で

攻撃されたら、一千の兵では、長く持ちこたえることが

できなかったのです

 

その上に、越前は、信長の命で

柴田勝家や前田利家、佐々成政に

弾圧されて、恨みを持つ一向一揆衆や

録を失った旧朝倉氏の武士が多く

前田利家、佐々成政も、途中で、

一向一揆衆や旧朝倉家の武士に

襲われるという悲劇にも合い、討たれてしまいました

彼らは、今までの無念を晴らしたのです

 

だから、武田勝頼は、あっと言う間に

越前一国という大半を手にすることができました

旧朝倉家の家臣達も、武田勝頼の勝利を知ると

家臣になることを求め

越前の全土を治めることも、簡単だったのです

 

∞「勝頼 織田信長と戦う」∞

 

武田勝頼が、7月7日、七夕の日に

加賀の金沢御堂の戦で、柴田勝家に大勝した後

7月15日には、越前の北の庄城に

逃げ帰った柴田勝家を滅ぼし

前田利家、佐々成政の武将も

朝倉家の武士の反乱で撃たれ

7月末には、越前一国が、完全に、武田勝頼の手に

入ったという報告は、安土城にいた

織田信長や織田家臣団に衝撃を与えました

 

3月に、上杉謙信公の急死で

織田家の大きな危機が、消滅したという事で

ほっとしていただけに

その驚きは大きかったのです

 

しかし、織田信長は、そんなことで

判断を誤る武将ではありませんでした

武田家が、越前、加賀を支配する事の

正しい意味を理解していました

あの恐ろしい武田家が、復活することになるのです

 

それで、武田家に、越前を与える訳にはいかないという事で

畿内の兵をすぐに集めると

織田信長自身が、5万の兵を集めると

7月25日には、もう越前に、侵攻していたのです

 

けれど、勝頼も、そんな織田信長の動きに対して

万全でした

曽根昌世を大将とした武田軍7千と

武田家に投降したり、仕官を求めたりしてきた

旧朝倉家の武士をどんどん採用すると

旧朝倉家で編成した兵3千、合計一万の兵を

近江と越前の国境付近にある

金ケ崎城や手筒山城に配置すると

待ち構えていたのです

 

しかも、心配していた越前内の織田派の抵抗は

殆どありませんでした

織田信長は、よほど、越前内では

酷いことをしていたのか

武田家に、反抗しようという武士はいなくて

次々と、武田家側についていました

その上に、越前内の一向衆も

武田家の元に、5千の兵で集まりました

 

なので、勝頼は、安心して、敦賀に

残りの武田家の兵7千人と越前の兵、1万

一向衆5千の合計、22千の兵で

後詰めすることができました

手筒山城が危ないと応援することができたのです

 

その上に、任された曽根昌世も

さすがは、信玄の眼と言われた武将です

馬場信春や山県昌景に匹敵する活躍をしました

織田軍を、一歩も、越前の中に入れなかったのです

 

それで、1カ月、8月末頃になると

さすがの織田信長も、越前の攻撃は諦めました

これ以上、攻撃しても、越前内に、なかなか入れそうにないし

例え、金ケ崎城や手筒山城を落として

越前内に入ったとしても

武田勝頼が、敦賀での決戦を避けて

越前の奥に、織田軍を入れて

出口の金ケ崎城に、ゲリラ攻撃をして

食糧などを届かないようにしたら

織田軍は、全滅してしまいます

 

その上、兵力的に言っても

武田軍には、加賀や越中、能登からも

援軍が得られるので、後、2万の増強は可能ですし

何よりも、後、3カ月もすれば、12月になって

完全に、越前は、雪で覆われてしまいます

そうなれば、雪になれていない織田軍は

雪になれている武田軍にとても勝てません

織田信長には、もうどうする事もできませんでした

時期を逸しました

越前が、完全に、武田家の手に

落ちたことを認めたのです

 

 

しかし、織田信長は、それで諦める武将ではありませんでした

作戦を変更して、3万の大軍を、越前から

今度は、武田家の本領、信濃、駿河に兵を向けました

 

何故なら今、信濃、甲斐、駿河は、勝頼が、1万5千の兵で

越前に入っているので、手薄です

海津城に、真田昌幸が、5千の兵で待機しているといっても

他の城には、そんなに兵は、多くいません

 

だから、今、駿河を、1万の兵で、

攻めている徳川軍と協力して

織田軍、3万の大軍で、信濃を攻めたら

うまくすれば、武田軍は、崩壊して

信濃、甲斐、駿河を支配できる可能性があります

 

というのも、越前にいる勝頼が、そんな信濃、甲斐、駿河を助ける為に

援軍を出すといっても、距離的に、難しいです

加賀、越中から信濃に入るには

織田軍の2倍から、3倍はかかるのです

 

その上、織田信長は、武田家内では、勝頼と、甲斐、信濃にいる

武田家の一族や家臣団の関係がうまくいっていないことを

承知していて、このことに賭けることにしました

勝頼に不満を持つ、武田家の武将は

大軍で攻めたら、あっさり降伏する可能性があります

そうすれば、信濃、甲斐、駿河を取ることができたら

越前、加賀を、武田勝頼が支配しても

怖くはなかったのです

280号 武田勝頼と御館の乱

281号 武田勝頼越前を取る

282号 武田勝頼御館の乱を治める

284号 今、超幸せです


 

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2011年 縁の花お手紙

すべての読者の皆様に緊急連絡

 

『この縁の花を読んで頂いている皆様へ

緊急連絡です

2010年、12月23日〜26日

金沢済度の旅をした事で

俺は、2011年〜2012年12月23日

俺の50歳の誕生日で

フォトンベルトに突入するとか

マヤ歴の予言でも

人類が滅亡するかもしれないと言う日まで

俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました

 

と言うのも、俺は、1993年10月1日

18年前に、何故縁の花を書き始めたのか

この世で、皆さん、一人、一人と

何を約束したのか

全部、明快に分かったからです

 

しかも、長年探し求めていた

日本や世界、人類を救う方法も

その手段も分かりました

答えは、すべて縁の花の中

皆さんにあったのです

 

だから、俺は、それを

この2年間という短い期間の間に

皆さんに、伝えきるつもりです

皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる

目には、見えない存在を救い切る覚悟です

 

是非、キクの命がけのお願いです

「2011年、縁の花の読者の皆様へ

キクの命がけのお願いの手紙」

をお読み頂きたいと思います』

 

2011年 縁の花のお手紙サイト

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