縁の花
(21世紀に咲く智恵の輪)
第301号
関ヶ原の戦い済度
軍師大崎玄蕃石田三成にツク
∞「大崎玄番、石田三成と会う」∞
石田三成、後の豊臣政権の運命が大きく変わったのは
7月17日毛利輝元が大坂城西の丸に入城して
西軍の総大将に就任した時でした
もうすぐ、毛利輝元や宇喜多秀家などと
今後の軍議をしようという時
上杉家から、一人の武将が、
家老直江兼続の書状を持って現れてきたのです
また、その直江兼続の書状には
石田三成の挙兵によって
上杉討伐に向かった家康の脅威が
おそらくなることで
当面、上杉家が救われたことに対するお礼と
今後のことが書かれていました
もし、このまま、徳川家康が
会津に向かって、上杉家に攻撃してきたら
必ず、初戦に勝利して
徳川家康率いる東軍に、大打撃を与えて
上杉との戦から、東軍が撤退できないようにしてみせる
西軍は、その間に、関東まで進攻したら
上杉軍と、西軍の挟み撃ちで
徳川家康は、滅亡するだろあと
勇ましいことを書いていたのです
しかし、その反面、徳川家康が
石田三成の挙兵を知って
上杉征伐に向かっている軍を
引き返して、自国領の関東に入ったら
上杉軍が、関東の徳川領に侵攻するのは
難しいと書いていました
というのも上杉家の領土、会津の北には
東軍の最上義光や油断のならない伊達政宗がいますし
旧領土になった越後には、堀秀治がいます
この敵を抑える必要もありますし
家康自身、関東をがら空きにして
江戸城を発つ訳もありません
必ず宇都宮城などに有力な家臣を入れて
上杉の侵攻に備えることは明白で
東国では佐竹家と共に、孤立している上杉軍は
四面楚歌の状態で
大軍を関東に向けられる情勢では
なかったのです
しかも、上杉家の家風
正義を重んじる謙信公からの家柄で
相手が攻めてきたら別ですが
一度も攻めて来なかった敵に対して
上杉家から、侵攻することは
主君である上杉景勝の性格からいっても
自分が、説得しても難しいと書いていました
それと、同じく、西軍として戦っている
佐竹家も、佐竹義宣の父、佐竹義重らが
西軍加担に猛反対していて
上杉家が、徳川家を攻撃しても
援護は期待できないという情勢も書いていて
結論として今、上杉が、江戸城を攻撃することはないと
書いていたのです
だから、石田三成は、その直江兼続の書状を読んで
「上杉は、あてにならない」ということかと
不満に言いました
石田三成としては、上杉に、関東に侵攻して貰って
少しでも、江戸にいる徳川軍を牽制して欲しかったのです
また、直江兼続のもう一つの書状は
自分が、初めて見る、大崎玄蕃と
いう人物の紹介文でした
この大崎玄蕃は、景勝の正室
菊姫のご縁がある人物で
主君、上杉景勝の信頼がとても厚く
今後の上杉家の判断を任せている人物で
自分も心から信頼している人物であると
紹介していたのです
しかも、無名ながらも知略もあって
主君、上杉景勝の影の相談相手で
家康を破る、ある秘策を持っている人物なので
良く、良く、聞いて
今後、何かと相談されて欲しいと書いていました
直江兼続も、その秘策に
大賛成だということが感じ取られたのです
それで、石田三成は、自分よりも年配の
大崎玄蕃と名乗る、無口な人物を改めてみました
直江兼続が、そこまで言う人物とは
一体、どんな人物なのだろう
確か、菊姫は、あの信玄公の姫だったので
その菊姫と縁のある人物と言うことは
武田家に関係のある人物なのか
石田三成は、まったく、大崎玄蕃を知らなかっただけに
ものすごく関心を持ったのです
また、そんな石田三成には
大崎玄蕃が、相当な人物だということは
一目見た時に、分かっていました
戦国の乱世の中を
信長、秀吉の元で生きた石田三成には
大崎玄蕃という人物が
乱世の中を、いろいろ経験して
苦衷の中で、しっかりとした意志を持って
生きて来た人物だということは
何となく戦国武将特有の匂いで、分かったのです
その上で、この人物は
軍師、家臣というよりも一流の武将
戦国大名の風格がありました
しかも、その器は
信長や、秀吉並でした
信長と堂々と戦ったものが持つ
何か、得体のしれない風格が感じられたのです
いえ、石田三成は
もしかしたらそれ以上かもしれないと思いました
今、ここにいる大崎玄蕃は
そういった戦国大名が持つ殺気
たたかいというものを超えて
何かを悟った人物に感じられたのです
亡き主君秀吉の持っているあたたかさとは違う
本当のあたたかさを持っている
信頼できる人物に思えたのです
ですから、家康は、大崎玄蕃という人物に
大藩、上杉家を任された人物として
取り扱うことを決めると
早速、直江兼続が言っている
徳川家康を討ち破る策を尋ねました
内心では、石田三成自身
西軍10万が、大阪城に集まったものの
一枚岩になっていないことはよく分かっていて
徳川家康に勝てる自信は持てていなかったのです
∞「大崎玄番、秘策を明かす」∞
7月17日、大阪城で
上杉家の家老、直江兼続の紹介で
初めて、会った大崎玄蕃に対して
その持っている、徳川家康を破る秘策とは何かと
丁寧に尋ねた石田三成に
大崎玄蕃は、静かに答えました
それは、
「殿は、これから、毛利輝元殿や宇喜多秀家殿と
協議して、何をするつもり」
ということでした
大崎玄蕃から、石田三成に
殿と呼ぶ事で
自分が、石田三成に、
使えるつもりだということを
明確に、意志表示すると
逆に聞いたのです
それで、石田三成は
しばらく考えて
大崎玄蕃という人物に
軍議を明かしていいか、どうか
一瞬迷いましたが
一番の親友である直江兼続が
信頼している武将だという事で
正直に言うことにしました
まずは、家康の家臣、鳥居元忠が守っている伏見城に
輝元の名で開城要求を勧告した後
従わなかったら
攻撃して落とすと
後は、畿内から徳川勢力を一掃するつもりだ
すなわち自分と親密な関係にあった小野木重勝を総大将に
軍勢を与えて丹後に差し向け細川幽斎が籠る
丹後国の田辺城を制圧させ
宇喜多秀家を総大将に、大軍で伊勢国平定に送り込み
大谷吉継は北陸道平定に向かわせ
自分は、佐和山城から西軍の拠点をなす大垣城に入ると
美濃方面を抑えることにする
石田三成は、少し興奮すると
自分の考えていたことを自信満々に言いました
徳川家康が、自分の挙兵を知って後
会津の上杉征伐から、江戸城に戻って
体制を立て直して
西軍に攻めてくる前に
尾張、美濃まで支配下に置いて
尾張、三河、美濃のラインで
徳川軍を迎え討つ
速さが、勝負だと考えているみたいだったのです
しかし、そんな石田三成の考えは
大崎玄蕃には、分かっていたのか
やがて、言葉を選んで
「それは、お止めになるべきです」
と言いました
それで、その意見に
少し、向きになった石田三成が
「なぜだと」聞くと
大崎玄蕃は、自信を持って
「殿は、もう勝ったからです」
と意外なことを言いました
「後は、紙きれ一枚で勝負はつきます」
大崎玄蕃は、そう断言して
石田三成を、驚かせたのです
しかも、智将である石田三成も
さすがに、大崎玄蕃が
何を言っているのか
分からないみたいでした
それで、しばらくして
石田三成が、どう言うことかと
深く尋ねると
大崎玄蕃は、自分の策を言いました
「まず、毛利輝元や宇喜多秀家の五大老の二人
と密かに会って決めることは
この戦いを治める事です
日本国内で、一切戦は起こしてはなりません
まだ、十分間に合います
その為には、こちらから一切
攻撃をしてはいけません
家康を糾弾するような文を
送ってもいけません
一言、毛利輝元、宇喜多秀家
二人の五大老の連盟の名前で
徳川家康や、上杉景勝
他の戦国大名すべてに
戦は、起こしてはならないと
命令すればいいのです」
大崎玄蕃は、そう言ったのです
しかし、それで、石田三成には
この徳川家康との戦が終わるとは思えませんでした
あの狸爺の家康が、それで納得して
戦を止めるとは思えませんでしたし
このまま戦が終わって
家康の地位が元に戻って
大阪城に戻ったら
一体自分達は、どうなるのだ
石田三成は、そう思うと
「馬鹿な、そんな事で徳川家康に勝てるか」
と言ってしまったのです
でも、そんな石田三成に対して
大崎玄蕃は、「その策なら唯一勝てます」と
答えると
「確かに、そんな文を見たら
家康は、激怒するでしょう
東国の戦国大名も、最初は承知しないでしょう
しかし、家康の方から、西軍に攻撃をすることは
躊躇うでしょう
後は、矢継ぎ早に、命令を出せばいいのです」
「秀頼公の御威光を持ってか」
ここで、石田三成は、ようやく分かったのか
そう言いました
大崎玄蕃は、そんな石田三成に頷くと
「そうです。家康は、前田利家公が亡くなった後
前田利長を大阪城から追い出すと
秀頼公の名前で、好き放題をしました
五大老の前田家、上杉家にさえ
何でも、自由にできました
殿も、家康を見習ったらいいのです」
「しかし、それで、東軍の大名が納得するだろうか」
「毛利輝元、宇喜多秀家が
すべての大名に公平に対処したら納得せざるを得ないでしょう
まずは、今度の戦の起こした武将の処分」
「家康か」
石田三成は、大崎玄蕃の言葉に期待をこめて言うと
大崎玄蕃は、首を振ると
「それは、後でございます。
この天下の内乱がはじまるのも一刻も早く終わらせ
大阪城に、上杉景勝、徳川家康を呼び出して
五大老の毛利輝元、宇喜多秀家二人で
この乱を起こした武将を
公平に処分すればいいのです
二人ならば、殿の思ったようにするでしょう」
大崎玄蕃は、そう言うと、にやりと笑い
改めて石田三成の覚悟を求めるように
「しかし、その前に、二人の五大老が
公平だということを示す為にも
この乱を起こした張本人を形だけでも処分し
各大名を大阪城に集め
徳川家康、上杉景勝の言い分を聞き
納得する形で、処分するのです」
大崎玄蕃が、そう言った時
やっと、石田三成にも、最初に処分される
張本人が、誰なのか、はっきりと分かりました
「その処分される張本人とは俺の事なのか」
石田三成は、そう、大崎玄蕃を
睨みつけると言ったのでした
∞「大崎玄番、石田三成を説得する」∞
石田三成は、この乱を招いた張本人として
自分にまず処分を受けよと言う
大崎玄蕃に激怒しました
しかし、まったく大崎玄蕃は
恐れることなく、平然と
「そうです。殿には、毛利殿、宇喜多秀家殿
了解の元で、しばらく、この大乱を招いた張本人
天下の悪党ということで、大阪城で監禁されて頂きます
白装束で、常に、いたらよろしいかと思います
でも、軍議、評定には
毛利殿、宇喜多秀家殿が
石田三成を厳しく吟味するという事で
直接、会って頂くなり
秘密会談で、会って頂くなりしたらいいと思います
容疑が晴れて、処分が解けるまで
我慢して頂かないといけません
なあに少しの間だけです」
大崎玄蕃は、そう言いました
しかし、石田三成は、なかなか納得しませんでした
何故、豊臣家の為に立ち上がった自分が
処分を受けないといけないのか
理屈では、大崎玄蕃の言うことも分かりますが
感情的に、受け入れられなかったのです
だから、石田三成は、それを
拒否しようとしました
そんなことをしなくても
武力で、徳川家康に勝ってみせる
自分の正義に、10万以上の大軍についてくれた
必ず、戦で、あの家康に勝てる
そう思いたかったのです
なので、石田三成は
「そんなことは無用だ
そんな事をしたら
かえって、西軍は戦を避けていると
家康や東軍に侮られるだけだ
戦で、必ず勝ってみせる」
と一見、もっともらしいことを言って
この議論を避けようとしたのです
しかし、そんな石田三成に対して
大崎玄蕃は、あくまで冷静に一言
「あの秀吉公でさえ
野戦で勝ったことのある
徳川殿に果たして勝てますか
一枚岩になっていない西軍で」
と、石田三成の一番痛い所を
つくと言ったのです
しかも、その大崎玄蕃の表情には
長年、戦を指揮して来た
総大将の武将だけが持っている何か
大きな野戦を、実際にしてきた経験のような
得体のしれない自信のようなものがありました
それで、思わず石田三成は、この大崎玄蕃とは
何者だと思いました
それを体験している武将は
戦国大名でもそんなにいないはずなので
訳が分からなくなって
大崎玄蕃を内心恐れたのです
また、そんな石田三成に対して
大崎玄蕃は、戦の怖さを伝えました
「徳川家康に、時間を与えたら
必ず、西軍を切り崩しにかかるでしょう
毛利家も一枚岩とは思えません
必ず、裏切りものが出るでしょう
徳川家康の力を侮ってはいけません
殿には、誰か、東軍の人物を
寝返らせる自信がありますか」
そう大崎玄蕃は、言ったのです
その上、その大崎玄蕃の言葉には
人としての人間の悲しい性が
感じられました
この人物は、人の裏切りの
怖さも知っている
石田三成は、大崎玄蕃に
自分には、ないものを持っていることが
良く分かったのです
そして、そんな石田三成に
大崎玄蕃は、しみじみと
「また、殿が、例え、徳川に勝ったとしましょう
それで、どうなりますか
天下が治まりますか」
「治まる。あの奸物さえいなくなれば
天下はまとまる」
石田三成は、そう言いましたが
大崎玄蕃は、少し、悲しそうな目をすると
「治まります。今度は、毛利輝元殿が
徳川家康になるでしょう」
「毛利殿はならん。毛利家には
天下を狙わないという家訓
毛利元就の遺言があると聞く」
「確かに、今、毛利殿はそんな事は
考えていないでしょう
でも、実際に、徳川家康を破り
東国の多くの戦国大名を改易して
最大の実力者になったらどうでしょうか
君子豹変しないと言えないでしょう
それが、人と言うものです」
「それに、殿は
徳川家康を倒した後
一体、家康をついた
豊臣家恩顧の武将達を
どうするつもりですか」
「知れたこと
豊臣家の恩義を忘れて
家康についたものなど
滅びたらいい」
石田三成は、そう本気で
怒りを持って言いました
福島正則や黒田長政、加藤清正
などの豊臣家の武断派に対して
本気で、怒っていて
徳川家康と同じように
家を滅亡しても仕方がない
それは天命だと思っていたのです
でも、大崎玄蕃は
「彼らは、豊臣家を裏切った
つもりはないでしょう
それに、そのような結果を
亡き太閤秀吉公が喜ぶでしょうか
かつては、秀吉公の為に
共に、命がけで戦い
同じ夢を持ったもの同志では
ありませんか」
「石田三成殿
家康に勝つには
同じ土俵、戦で戦ってなりません
家康が、戦で戦うなら
殿は、法で戦いなさい
そうすれば、負けはしません」
「今、戦国武将の多くが
本当に望んでいることは
この戦が起きるのを一刻も早く終わらせ
折角、自分が登り詰めた
戦国大名としての地位を
何とか守ること
戦で勝って、領地を
増やすことなど
どの戦国大名も求めていません
それを西軍が、見事に実現したら
自ずと、戦を起こして
天下を取ろうとする家康は破れます」
「今後の豊臣家の繁栄の為に
太閤秀吉殿が作った秩序、法を
殿自ら壊してはいけません
家康に、明確に破らせて
豊臣家の名前で、討てばいいのです」
「分かった。家臣と相談して
毛利殿、宇喜多殿とも、よくよく相談してみよう」
矢継ぎ早に、たたみ込むように
必死に、言っていた大崎玄蕃に
とうとう、石田三成は、そう答えました
というのも三成自身、今は、敵対していますが
秀吉公の元に、共に戦った仲間だった武将を
討ちたくはありませんでした
中には、福島正則や黒田長政とは違って
山内一豊や田中吉政や浅野長政の息子浅野幸長などの
滅ぼしたくない仲間もたくさんいたのです
しかも、石田三成自身
この大崎玄蕃の案が
内心、非常に気に入っていました
法の戦いであれば
大阪城の秀頼公を握っている西軍が有利でしたし
家康に負ける気はしなかったのです
それにやってみてから駄目だったら
戦で勝負することも可能です
だから、石田三成は
家臣の島左近などに相談して
例え、島左近が驚いて反対しても
自分の策として
毛利輝元、宇喜多秀家に
提案するつもりでした
これなら、戦を避けたいと思っている
毛利殿も喜んでのるだろう
今の石田三成には
それが、最善の策だと思えたのです
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俺は、2011年〜2012年12月23日
俺の50歳の誕生日で
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マヤ歴の予言でも
人類が滅亡するかもしれないと言う日まで
俺は、死ぬ気で、済度をする決心をしました
と言うのも、俺は、1993年10月1日
18年前に、何故縁の花を書き始めたのか
この世で、皆さん、一人、一人と
何を約束したのか
全部、明快に分かったからです
しかも、長年探し求めていた
日本や世界、人類を救う方法も
その手段も分かりました
答えは、すべて縁の花の中
皆さんにあったのです
だから、俺は、それを
この2年間という短い期間の間に
皆さんに、伝えきるつもりです
皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる
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