縁の花
(21世紀に咲く智恵の輪)
第303号
関ヶ原の戦い済度
大崎玄蕃語る
∞「石田三成、大崎玄蕃
の正体を知る」∞
慶長5年9月9日重陽の日、菊の節句の日
石田三成は、京都の上杉家の屋敷に
お忍びで入っていました
というのも、9月1日
豊臣家から、徳川家康が起こした
会津上杉征伐に関して
上杉家、徳川家、両家の言い分を改めて聞いて
毛利輝元、宇喜多秀家の五大老の二人と
豊臣家の三奉行、三中老によって
9月15日、評定して
徳川家、上杉家を公平に裁くと
いう達しが来たのです
それで、事前にそのことが分かっていたのか
上杉景勝は、すぐに5千の兵を集めると
家老の直江兼続を引き連れると
9月3日に、会津を発つと、越後から
前田藩の領地、越中、加賀の北陸道を進むと
9月7日には、京都の上杉家の屋敷に入りました
そこで、9月15日の評定の準備
徳川家との正義の戦い、法の戦いに勝つ為に
いろんな手を打とうとしていました
その為に、一日も早く、徳川家よりも
先に、畿内に入ろうとしたのです
また、大阪城で、監禁されていたはずの石田三成も
同じように、裁かれる上杉景勝、徳川家康が
自由の身だということもあって
豊臣政権の評定の上
9月7日の日に
無事に解放されることが決まりました
大阪の石田家の屋敷に戻ることが許され
9月15日、評定を受ける為に
大阪城に入城することになっていたのです
だから、そんな石田三成を
上杉景勝、直江兼続は、京都の上杉屋敷に
9月9日の重陽の日で、縁起がいいという事で
密かに招きました
それは、今まで、大阪城で監禁されていた労を労わり
改めて、上杉家の危機を救ってくれた事に
感謝することが目的でした
石田三成は、上杉家にとっては
家康の会津上杉征伐の危機から救ってくれた
最大の恩人だったのです
でも、それだけでなく
石田三成と直江兼続、上杉景勝は
9月15日の前に、事前に会って
いろいろ相談する必要がありました
今後、徳川家康に対して
どう対処して、自分達はどうするか
それを相談する必要もありましたし
石田三成が、大阪城で、決起したことも
どう言うか、話を合わせていく必要もありました
石田三成が、上杉家を救う為に
大阪城で決起することを
上杉家は、事前に知らなかったことにして
石田三成の西軍を戦に巻き込もうとしたことは
上杉家は、関わっていなかったことにする
必要があったのです
ですから、この会合に参加できる人物は
ごく一部でした
石田三成と上杉家が、9月15日の前に
事前に会って、打ち合わせをしたことを
世間に知られない為にも秘密の会議でした
参加メンバーは、石田三成、直江兼続、上杉景勝
景勝の正室、菊姫、直江兼続の妻、お船の五人でした
菊姫とお船は、石田三成の労を労わるというお役もあり
酒と肴などの料理も用意されていたのです
そして、後、一人、この秘密の会議に招かれていた
謎の人物がいました
それが、大崎玄蕃でした
大崎玄蕃も、6名の人物として
対等の立場で、席を用意されていて
堂々と座っていたのです
また、その会議は、最初
普段は、まったく無口な上杉景勝が
丁寧に、頭を下げて
「石田三成殿、この度は当家の危機を
救って頂いて真にありがとうございます」
と御礼を言ったことで始まりました
その主君の言葉に、次々と
菊姫、直江兼続、お船も
石田三成にお礼の言葉を言ったのです
しかし、その後、上杉景勝は
今度は、大崎玄蕃の方を見ると
石田三成の時と同じように
「大崎玄蕃殿も、この度は
当家の大きな危機を救って頂いて感謝します
ありがとうございます」と言って
石田三成を驚かせました
その主君の言葉で
菊姫、直江兼続、お船も
頭を下げ、お礼の言葉を言ったのです
そして、その後、早速、ささやかな宴会が始まりました
菊姫、お船は、石田三成、大崎玄蕃に酒を注ぎ
景勝、兼続も注ぐと、自分達も、少し酒を飲んだのです
でも、ここで、菊姫は、大崎玄蕃に対して
「兄上様、今日は来て頂きありがとうございます」と言って
お酒を注いでいて、石田三成を驚かせました
と言うのも石田三成は、大崎玄蕃という名前が
この男の本名でないということは分かっていましたが
謎の男が、自分のことについて、一切語らないので
あえて聞こうとはしませんでした
聞く事は失礼だと思ったのです
しかし、菊の姫のご縁だという事なので
たぶん、菊姫の実家、今は滅亡した
武田家の重要な人物だと推測していたのですが
まさか、菊姫の兄とは思いませんでした
というのも石田三成は、武田家に関しては
詳しくなかったですが
少し調べさせていて
菊姫の兄にあたる人物は
織田信長公の武田征伐の時に
全部死んでいることは確認していたのです
なので、石田三成は
菊姫に兄がいることに、少し驚きました
信玄公に、隠し子でもいたのかと思ったのです
ですが、続いて上杉景勝が
「兄者に、救って頂いたのは
これで二度目ですな」と言った事で
ますます分からなくなりました
そんな人物がいたとしたら
それは、誰なのか
上杉家が、ここまで、恩を感じている人物か
武田家にいたか
上杉景勝や直江兼続と
堂々と対等に会える人物かいたか
頭のいい石田三成は、必死に考えたのです
その上で、上杉家の歴史には詳しい石田三成が
思いついた人物は、たった一人でした
何故ならあの上杉家が、宿敵だった武田家に救われたことは
唯一、上杉謙信公が亡くなった後
上杉景勝、上杉景虎が争った御館の乱の時です
しかも、その時に上杉家を救った武田家で
菊姫の兄にあたる人物で
上杉景勝からも兄と呼ばれることが
できる資格のある人物は
一人しかいなかったからです
それは、その時の武田家の主で
菊姫を、景勝に嫁がせた
武田・・
でも、続いて石田三成は
その考えを否定しました
そんな訳がない
あの人物は、確か、織田信長公の戦に敗れて
追い詰められて、甲斐で確か、死んだはずだ
石田三成は、そう考えると
訳が分からなくなったのです
∞「大崎玄蕃今回の
いきさつを語る」∞
大崎玄蕃の説明で
石田三成は、天目山で討たれたはずの
武田勝頼が本当は生きていて
西国のどこかで、大崎玄蕃という一人の武士と
して生きていた事には納得しました
上杉景勝、直江兼続が、承知していることです
あの信玄公がずっと前から考えた策
織田信長を最後に騙したことも
できないことはないと思ったのです
しかし、そうすると
謎、西国で、一人の武士として
どこかの主君に仕えていたはずの大崎玄蕃が
どうして、直江兼続からの書状を持って
上杉家の使者として、自分の前に現れたのか
新たな疑問が生まれました
それが、疑問だったのです
それで石田三成は
「武田勝頼公が、大崎玄蕃になった事は
よく分かりました
でも、どうして、その大崎玄蕃殿が
私を助けてくれたのですか」と尋ねました
そのいきさつが知りたかったのです
また、そんな石田三成に対して
大崎玄蕃は、飲んでいた酒を飲み干すと
再び、説明しました
「俺は、一人の武士として
御霊達を弔らいながら
ずっとひっそり生きていることで
満足しています
妹の菊にも、居場所は伝えていますが
殆ど、会っていません
ただ、たまに、大阪に、上洛した時
主君の許しを得て
上杉家の屋敷で、菊姫や景勝殿と
こんな感じで会い
世の中の動き、世情を聞いていました
この戦国の乱世が、どう終わるのか
静かに見届けるつもりだったのです」
「しかし、今回の徳川家康の
会津上杉征伐の話です
俺は、その話を聞くと
主君の了解を得て
妹の菊姫にいる
京都の上杉屋敷に入りました
武士の倣いとはいえ
妹は、人質として京都に留まったままです
戦は、上杉が、徳川に勝っても、負けても
妹は、いつでも、徳川家の人質になる身
せめて兄として、側にいてやりたかったのです」
「でも、その中で
石田三成殿が、立ち上がる噂を聞きました
京都の上杉家の家臣にも
妹を通して確かめさせたら
その噂は、真実ということ
これは、徳川家康の罠だということ
すぐに分かりました
何年も、徳川家康殿とは
生死をかけて戦って
痛い目にもあっています
あの御仁の考えている策は
大体分かるのです」
「それで、私を助けてくれたのですか」
「家康は、本当に恐ろしい人物です
勝頼だった時、武田家の家臣団を
うまく取り入れられました
あのまま、石田殿が、西軍を率いても
家康に、時間が与えたら
必ず、味方を寝返らせるのは必至
勝負は、時の運とは言え
あのまま、石田三成殿が
戦で徳川殿に勝ったかもしれませんが
最善の勝てる策を思い付いたので
急ぎ、会津の上杉家に、妹を通して
使者を走らせ、直江兼続殿、上杉景勝殿に
策を口頭で伝えさせ、了解を頂くと
大阪城に、急ぎ書状を送らせ
届くとすぐに、石田三成殿にお会いしたしだい
間に合って本当によかった」
大崎玄蕃は、そう言いました
7月17日、毛利輝元なりが大阪城に入城して
毛利輝元、宇喜多秀家などの西軍の武将達と
今後の戦をする作戦会議の前に
石田三成に会って、止めさせることに
成功したことに
今更ながらほっとしたのです
いえ、もし、書状が届くのが、もう少し遅れていたら
合戦は間違いなく始まっていました
大崎玄蕃は、そのことを考えると
身ぶるいしました
石田三成には、言えないことですが
たぶん、味方の裏切りで
どんなに善戦しても、負けていたと判断していたのです
また、大崎玄蕃は、そんな石田三成に対して
改めて、姿勢を正して、土下座すると
「よくこの大崎玄蕃の策を用いてくれました
豊臣家の為、天下平安の為
西国諸国を戦に導こうとした
天下の大悪党という
お汚名を受けたまま
大阪城で監禁されていました
この大崎玄蕃感服していました」
と、石田三成に言ったのです
それは、大崎玄蕃の心からの本音だったのです
そして、それに対して
石田三成も、大崎玄蕃に
心から感謝しました
「こちらこそ、大崎玄蕃殿には
心から感謝しています
よくぞ、西軍、東軍と別れた大戦を
止めてくれました
もし、勝ったとしても、負けたとしても
多くの豊臣家の恩顧の大名も
改易することになったでしょう
いえ、まとまりのない西国の諸大名を率いて
果たして勝てたか、どうか」
石田三成は、この間
冷静に西国の味方を見ていて
毛利一族の吉川広家、小早川秀秋など
もう一つ、信頼できない大名が多いことを
感じていました
大崎玄蕃の言う通り
武力で戦っていたら負けていた
法の戦いをして
見事に家康に勝ち
豊臣家を守ることができたことに
心から、ほっとしたのです
∞「大崎玄蕃決意を語る」∞
しかし、石田三成や上杉景勝は
9月15日、大阪城で
徳川家康がしようとした会津上杉征伐が
果たして正しかったのか、間違っていたのか
上杉景勝の家老、直江兼続が出した
直江状で言うように、徳川家康は、天下を狙っているのか
豊臣家として、評定する
徳川家康と上杉家との法の戦
正義の戦には、もう勝ったとはいえ
まだやらないといけないことがありました
二人の敵は、もう、家康だけでは
なかったからです
というのも、徳川家康は、
豊臣家の呼び出しに関しても
病気を理由に
大阪に上洛することに
頑なに応じようとはしませんでした
行っても、もうどうする事もできない
罪を言い渡されて
捕えられることが分かっていました
そこに、のこのこ行く程
家康は、お人よしではなかったのです
だから、9月9日になっても
家康が、江戸城を発ったと
いう知らせは入っていませんでした
この分では、家康が、9月15日に
来る事は事実上無理です
上杉景勝の不戦勝は確定していたのです
でも、石田三成、上杉景勝には
徳川に勝ったからと言って
喜んでいる時間は、そんなにありませんでした
何故なら、最後の詰めが残っていたからです
しかもそれを、石田三成、上杉景勝に
強く言ったのは、大崎玄蕃でした
大崎玄蕃は、このまま毛利輝元を勝たせすぎてはいけない
第2の家康にしてはいけないと言って
石田三成、上杉景勝、直江兼続は
はっとしました
大崎玄蕃の深い洞察力に驚いたのです
また、その為にも
徳川家を滅亡させることも
いけませんでした
徳川家と、関東での戦
第2回北条征伐のような
戦はさせなくてはいけなかったのです
そんな大きな戦をしたら、毛利家は
今後、大きな力を持つことになるからです
ですが、その徳川家は、豊臣家との戦を
覚悟しているみたいでした
家康は、豊臣家の出頭命令を拒否し
外交で、何とか解決しようとしていました
だけど、それがどうしても、駄目なら
とても飲めない条件を付きつけられたら
戦も仕方がないと思っていました
戦になれば、圧倒的に不利な事は分かっていましたが
小牧・長久手の戦いで、豊臣家の大軍を
やぶったことをあります
何とか、徳川征伐の戦に勝利して
和議に持ち込むつもりでした
そうするしか、徳川家が生き残る道はなかったのです
だから、石田三成、上杉景勝、直江兼続にとって
徳川家康を、どう説得して
降参させるかが、大きな課題でした
どうしたら、どんな条件なら
家康は、納得し、毛利輝元や宇喜多秀家などの
西軍も納得するか
それを考えないといけなかったのです
そして、その中で大崎玄蕃は
石田三成、上杉景勝、直江兼続の前で
一つの決意を述べました
「徳川家康殿に提示する条件が決まれば
お二人の使者としては俺が参りましょう
もう、元武田家臣、大久保長安 にも
繋ぎをとっています」
大崎玄蕃は、最後の仕事して
かつての宿敵だった
徳川家康に、大崎玄蕃として
会う覚悟をしていたのです
しかし、それは、石田三成や上杉景勝
菊姫や直江兼続、お船を驚かせました
家康が、今回の策を考えたのが
大崎玄蕃だと知ったら
武田勝頼が実は、生きていたと知ったら
生きては帰れないと思ったのです
特に、妹の菊姫は、表情からも
すごく心配していることが見てとれたのです
でも、大崎玄蕃の決意は
覆りそうもありませんでした
大崎玄蕃は、本気だったのです
また、石田三成にしろ
上杉景勝、直江兼続にしろ
そんな大崎玄蕃の姿を見ていて
一介の武士になった大崎玄蕃の
徳川家に対する影響力を悟りました
何故なら、旧武田家臣団の多くは
甲斐、信濃を支配した
徳川家臣団の中に組み込まれていました
なので、元武田家の主だった武田勝頼は
旧武田家臣団の繋がりで
徳川家に影響力がありました
それが、徳川家では、内政の
新田開発、金山採掘などをすべて任され
徳川家の影のナンバー2の実力者と言われている
大久保長安 と繋ぎがあるという事で
よく分かったのです
しかも、石田三成、上杉景勝、
直江兼続や妹の菊姫にも
大崎玄蕃が、徳川家康に
命がけで、会おうとしている気持ちも
良く分かっていました
何故なら、徳川家が、滅亡したら
信長の武田狩りから生き残った後
徳川家康に、召し抱えられて
旧武田家臣団も録を再び無くすことになります
大崎玄蕃は、武田勝頼だった時に
武田家を滅亡させて
多くの家臣を路頭に迷わせた
罪滅ぼしの意味でも
行く必要があったのです
だから、そんな大崎玄蕃の決意を
察した石田三成は
「承知した。大崎玄蕃殿に
我らの代表として、家康に会って頂こう」
と答えました
その後、石田三成は
大崎玄蕃が、武田勝頼と分かった時
からの疑問を言ったのです
「しかし、貴殿がいて武田家は
どうして滅びたのですか」
石田三成は、それが、納得できなかったのです
また、そんな石田三成は
大崎玄蕃は、しみじみと
「石田三成殿、時勢の流れには
誰も逆らえない
武田家には、無念でしたが
運がなかったのです
そしてその時勢を理解するには
俺は、まだまだ若かった
俺が、それを理解したのは
武田勝頼ではなく、大崎玄蕃になった時でした
武将としてのたたかうという思いが抜けた時だった
父、信玄が言うように、武田家の御霊を
本心から弔らえるようになった時
俺は、変わることができたのです」
というと、立ち上がり
大崎玄蕃が、今、第2の国元で、婦人の北条婦人と
流行らせているという「玄蕃おどり」という踊りを
踊り始めました
この「玄蕃おどり」は、御霊供養の踊り、豊年おどりの踊り
ということで、広めている踊りですが
大崎玄蕃自身は、甲斐の天目山で
自分達親子の為に、おとりになってくれた武田家臣や
諏訪高遠城で、唯一武田勝頼の為に戦ってくれた
弟、仁科盛信や諏訪の兵の供養
すべての武田家に関わった味方、敵関係なく
御霊達の供養を願っていました
それを武田家の御霊達を意識しながら
一緒に、一緒に踊りながら
「弓をこそかたげ、槍をこそかたげ、大崎玄蕃殿十七太刀(八)をかたいだ
踊りに来ては踊りこそするぞ、えんでひとはけ、えんの花ばかり」
と、大崎玄蕃は、数少ない部分を歌うと
これから自分が、徳川家康に会うことで
戦が、防げるように
旧武田家の家臣が、これからも繁栄できるように
武田家の御霊に応援してくれるように
願っていたのです
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