縁の花
(21世紀に咲く智恵の輪)
第304号
大崎玄蕃と徳川家康
∞「大崎玄蕃、徳川家康と対面する」∞
9月15日は、大阪城では
五大老筆頭の徳川家康がした
会津上杉征伐の是非を
豊臣政権として、裁くという日でした
家康は、それを江戸城にいて
どんな処罰が下るか
固唾を飲んで待っていました
豊臣家が、今まで、五大老筆頭として
好き放題してきた自分達に対して
黙っている訳がありません
徳川家255万石の改易という処置が
下っても、不思議でもなんでもありませんでした
いえ、戦国大名諸公の多くは
まだまだ領地を欲しがっていました
そんな処置が下る可能性が高かったです
毛利輝元は、この期に、戦に勝利して
徳川家を潰して、大幅に、領地を増やし
今の自分の座、五大老筆頭になって
豊臣政権を自由に動かすことを狙っていました
いえ、それを毛利輝元というよりも
最近まで、自分に必死に取りいって
毛利家の安泰を願っていた
毛利一族の吉川広家や小早川秀秋が
卑しくも、それを主張しているという情報も
家康の耳に入っていました
家康は、困った時にする癖
爪を噛みながら
病でもないのに
床の中で、臥せっていたのです
というのも、そんな徳川家康に
是非に会いたいという
石田三成、上杉景勝からの内々の使者
名前を聞いた事もない大崎玄蕃がというものが
来ていたからです
それで、家康は、会うことになったのです
しかし、家康自身、病という
仮病をしているので
本当は、使者に会う訳には
いきませんでした
そんな家康が、会う気になったのは
石田三成、上杉家の使者だけでなく
家臣の大久保長安が強く、強く願ったからです
というのも、大崎玄蕃という人物は
大久保長安によれば
自分と同じ旧武田家家臣で
織田信長が起こした武田征伐の時に
越後に逃れ、上杉家の家臣として
仕官していた人物だということでした
家康は、何で、そんな人物に
五大老筆頭の自分が会わないと
いけないのかと不満を述べましたが
大久保長安たっての願いと言うことでした
そこに、家康は、何か大きな事情があること
理解しました
それで、床に大崎玄蕃を呼んで
側近のものも側に置かないで
ほしいという条件を飲んで
警護の家臣を何人か置いた中で
病の中をやっと起き上ったという事を
装いながら会うことにしたのです
また、大崎玄蕃は、そんな家康に対して
初めて目通りする御挨拶と
丁寧にお見舞いの言葉を言うと
本題の要件を述べました
まず、大崎玄蕃は、今日の豊臣家の評定で
上杉家、石田家は、堂々と正論は述べますが
喧嘩両成敗の法もある事なので
上杉家は125万石の内、太閤秀吉が与えてくれた会津の土地を
豊臣家に返上して、代わりに元の領地越後貰うこと
すなわち、越後、佐渡、出羽国の米沢、庄内の大名
80万石の大名として新しく上杉家はやっていく事と
石田三成も、近江佐和山19万4000石から
10万石を、豊臣家に返上して
9万石の大名になることを告げました
二人から、そのことを
毛利輝元、宇喜多秀家に申し入れをして
見事な決断ということで
認められること
そうもう話は、内々で
決まっていることを告げたのです
しかし、それは、徳川家康に驚きでした
家康は、上杉家、石田家が
領地を豊臣家に返上するとは
夢には思っていませんでした
上杉家、石田家は、自分の正当性を
主張して、領地の返上に応じないと
思っていました
上杉家が、謙信公以来の領地
越後に、どうしても戻りたがっていることは
承知していましたが
ここまでして戻るとは思いませんでしたし
あの自信過剰の石田三成も
自分の非を認めるような
領地の半分も返上することを
自ら、申し入れる事も
豊臣の領地になるとはいえ
とても信じられなかったのです
でもそれで、賢明な徳川家康は、大崎玄蕃の言葉で
大崎玄蕃が、自分に何を伝えたいのか分かりました
「石田殿、上杉殿は、徳川家からは
何万石、領地を、豊臣に返上したらいいと考えているのだ」
とそれで、大崎玄蕃に聞いたのです
「上杉家は、会津上杉征伐の両成敗で3分1
石田三成は、西軍を戦に招こうとした事で半分
徳川家は、二つの罪で、3分の2が妥当かと」
「170万石か。わすが85万石の大名になれというのか」
「それぐらいして頂かなければ、西軍は納得しません
戦になれば、領地が増えるのですから」
大崎玄蕃は、そう言うと続けて、
「それに、新しい徳川家が、今後、豊臣政権の元で
やっていくには、手頃な領地
この関東に地で、100万石を持っていたら
いずれ、お家は危ないかと
次の後継ぎ、秀忠様の為にも
これは、長い目で見れば、
悪い事ではないと思います」
「わしに隠居しろということか」
家康は、二つ目の条件が
それだということを察するといいました
大崎玄蕃は、そんな家康に、苦笑いすると
「徳川家康殿が、五大老筆頭を降りると言っても
五大老の一人として復帰すれば
毛利殿、宇喜多殿もびびって、何も発言出来ますまい
とても徳川家の五大老復帰を認めますまい」
「徳川家は、いい世継ぎをお持ちかと
あの温厚な秀忠殿であれば
上杉殿、宇喜多殿、前田殿と一緒に
この日本国をよくできるでしょう
徳川殿は、まだ、東軍として
戦を一切してはござらん
これが、妥当な処置かと思います」
「あの不忠者の秀忠が
よき世継ぎか・・
分かった。もし、上杉家、石田殿の処置が
大坂城の想定で、そう決まったというのであれば
この家康、二人の正義に感銘を受けたという事で
隠居と、豊臣家への領地返上を申し入れよう」
家康は、そう答えました
この大崎玄蕃のような人物が
敵にいれば、とても戦には勝てない
もう戦をするという
戦いの気持ちはなくなったのです
それに、大崎玄蕃のいう通り
そうしないかぎり
徳川家は、生き残れませんし
255万石という豊臣家も凌ぐ領地が
自分以外のだれにでも
継ぐことができない事も分かっていました
すべての重荷を下ろして
隠居するのも悪くないと思ったのです
しかし、家康は、今自分の前で
堂々と接している大崎玄蕃という人物に
一つだけどうしても確かめたいことがありました
大崎玄蕃が、単なる使者でないことが分かった今
それを尋ねたのです
∞「大崎玄蕃、徳川家康
と和解する」∞
「大崎玄蕃殿とやら
最後に貴殿に一つだけ聞きたい
西軍を率いて、わしと天下をかけて
大戦をしようとした石田三成を
わざと、大乱を起こそうとした
大悪党ということで
大坂城に監禁するという策を考えた
天下を欺いた人物は、どなたかな」
徳川家康は、今後の徳川家の
生き残る道を見出すと
そう尋ねました
「石田三成本人ではあるまい
直江兼続でも無理だ」
徳川家康は、そう言うと
大崎玄蕃に答えを求めました
もう、徳川家康には、分かっていたのです
また、大崎玄蕃は、そんな徳川家康に
「拙者です」と素直に認めました
「やはり、貴殿か」
「しかし、あれだけの仕掛け
貴殿は、何者だ」
「貴殿には、戦国時代の本当の乱世
信長公と共に戦っていた頃の何かを感じる
あの時に、総大将として戦ったものが持っている
大きな器、視野の広さを感じる
でないとあれだけのことをして
この家康を破れまい」
「武田・・・・・
もしかしたら、貴殿は勝頼殿か」
家康は、しばらく思惑した上で
信じられないという顔でいいました
大崎玄蕃は、そんな家康に
しばらく考えて
「いかにもそうです。勝頼です
ただ、このことは絶対に内密にして頂きたい
勝頼は、今日でいなくなります
大崎玄蕃が存在するだけです」
「そうか。勝頼殿か
しかしよく生きていたものだ」
「すべては武田家の家臣達のおかげ
父、信玄公のお計らいです」
「そうか、信玄公の・・・・」
家康は、その言葉に納得したのか
「信玄公はわしだけでなく
あの信長公も欺いたのだな」
と言うと、嘗て、信長が生きていた時
お互いの家の生死をかけて
戦った相手、武田勝頼を
改めて見ました
こうして対面したのは初めてだったのです
また、そんな家康の目からは
武田家が滅亡した時から
ずっと言われ続けていた
武田勝頼を愚将だとは
まったく見ていない事が
感じられました
いえ、むしろ家康は
信玄が、亡くなった後も
10年ちかく激しく戦っていた
武田勝頼を認めていました
武田勝頼が、ある意味では
信玄公にも劣らない面が
あった事もよく分かっていました
特に、本能寺の変で
信長が亡くなった後
甲斐、信濃を支配して
新しく仕えた武田家の家臣に
武田勝頼のことを聞き
実際に、山国、甲斐、信濃
の民を治める事で勝頼の苦悩が分かりました
あの信長を敵にして
10年間も武田家を守ったのは
武田勝頼だからこそ
できたと思っていたのです
だから、今、大崎玄蕃の正体は
武田勝頼だとすぐに気が付いたのです
また、そんな武田勝頼
大崎玄蕃と名乗るものが
命をかけて
この場に来たことも
今の家康には、分かっていました
旧武田家の家臣の為にも
徳川家が滅びる負け戦は
させたくない気持ち分かったのです
だから、家康は
「武田家の家臣の事はお任せあれ
豊臣に領地を返上する上は
できるだけ、そちらに行くように手配しよう」
そう約束しました
新しく始める徳川家は
できるだけ三河、遠江の従来の家臣で
始める決心をしたのです
そうでないと、三河武士は
納得しないと思ったのです
そして、その家康の言葉に
大崎玄蕃は、心から感謝すると
家康に礼を述べると
使者としての役目を終えようとしました
家康は、そんな大崎玄蕃に
いつでも、訪ねて来られよ
今は、隠居の身
徳川家を救ってくれた使者として
熱く遇しようといいました
武田勝頼と徳川家康は
その時に、歴史的に和解したのでした
また、この大崎玄蕃と徳川家康の和解で
徳川家は、救われました
家康は、石田三成、上杉景勝が
豊臣家に自ら領地返上を
求めたことを確認すると
早速、自らの隠居と
跡継ぎを秀忠に定め
豊臣秀頼公に対して
170万石の領地の返上と
多くの家臣
主に武田家の家臣を
豊臣家に渡しました
武田家の家臣団は
その後は豊臣家の家臣として
明治の世になるまで
繁栄することができたのです
∞「あとがき 関ヶ原の
戦い済度終わりました」∞
慶長5年9月15日
江戸城で徳川家康との過去の因縁
武田家と徳川家の戦いの因縁を
和解することで、解消した大崎玄蕃は
そのことを心から武田家の御霊に感謝すると
18日には、関ヶ原の地を通って
21日には、大坂城で石田三成、上杉景勝とあって報告して、
23日は、京都上杉屋敷で、妹、菊姫と会い
しばらく滞在すると
10月1日、徳川家康からの豊臣家に対する和平が
実現することを見届けると
それ以降の消息は一切消えました
大崎玄蕃は、第2の故郷に静かに帰ったのです
また、それ以降は、大崎玄蕃の名前は
一切、歴史から登場しませんでした
石田三成、徳川家康は、大崎玄蕃との約束を守って
一切消息を探そうとはせず
歴史にその名前が登場することはなかったのです
しかし、歴史の影の伝説として
徳川家康の側近で、家康の推挙で
新しく豊臣家に、金山、銀山開発奉行として仕えて
活躍した大久保長安が残した伝記には
大崎玄蕃という名前が残っていました
石田三成が、挙兵した事で
本来なら、日本全国が、西軍と東軍に分かれ
天下分け目の大戦をして
負けた多くの大名が没落し
多くの家臣が路頭に迷うのを
たった一人で、救った天才軍師がいた
それが大崎玄蕃という名前だったというのです
でも、その真相は、藪の中でした
大久保長安の残したことは
実は、天目山で死んだはずの武田勝頼が
大崎玄蕃だったなど
あまりにも話が、突飛すぎて
とても信じられなかったのです
だから、元武田家家臣だった大久保長安が
武田家を懐かしむ作り話だと
ずっと思われていたのです
たけど、この時代に生きたすべての武士
戦国大名は、死んだ瞬間、御霊になった時
この時代に、他次元宇宙の世界では
もう一つ別な選択の道があって
それは、西軍と東軍が関ヶ原の地で激戦しましたが
大崎玄蕃の予想通り、西軍は、家康の誘いで寝返った
小早川秀秋の裏切りで、西軍は惨敗する運命が
あったことを知りました
その時には石田三成や小西行長は捕えられると
10月1日、京都の六条河原で処刑され、
上杉家は、米沢30万石に押し込められたはずでした
西軍の戦国大名の多くは改易か、減封、転封の処分を受けて
多くの大名や武士が苦しんだ可能があった事を知ったのです
しかも、その戦いに勝った徳川家康によって
豊臣恩顧の大名の多くは取り潰され
豊臣家自身も滅亡し
その後の江戸時代でも
多くの大名がお取り潰しにあう
武力で押し込められることに
なっていた可能性が高かったことも分かりました
それを、たった一人、大崎玄蕃の活躍で
天下分け目の関ヶ原の戦いを含めた
一切の戦が未然に防がれ
どの大名も潰されず
減封された徳川、上杉、石田も
かえって豊臣家の家臣になることで
多くが幸せになれたのです
この時代に生きた多くの武士の御霊達は
大崎玄蕃の存在に感謝せずには
おれなかったのです
また、そんな大崎玄蕃は、長宗我部盛親の領地
土佐にある大崎に帰ると
1609年8月25日、64歳まで
大崎家の繁栄に務めたと言われています
しかも地元の人達や、武田家一族の人達から
本当に愛されて
海川山定福寺や大崎神社を建立し
玄蕃踊りや玄蕃太鼓を土佐全土に広げて
北条夫人、後の三津岐夫人に見届けられて
川井土居屋敷(鳴門神社)に葬られているのです
その上に、その後の武田勝頼の一族も
嫡男の信勝は土佐、長宗我部家で
三津岐夫人の元で生まれた次男正晴も
縁あって、遠江掛川6万石山内家の家臣として仕えると
大いに繁栄したと言われています
これは、石田三成が
大崎玄蕃が、土佐の長宗我部家にいることを知っていて
内々に、長宗我部家と山内家に
大崎玄蕃一族のことを
頼んでいたと言われていますが
真相は、まったく分かっていなかったのです
しかし、2009年
大崎玄蕃が死んだ後の400年後
そんな大崎玄蕃が
土佐で実在していたことが分かりました
今まで、ずっと隠されていた真実が分かって
歴史研究家や武田家の人達を
驚かせているのです
しかも、そんな大崎玄蕃の伝説の一つに
1600年に起きた上杉征伐の時
石田三成と徳川家康の内乱が起きる前に
三津岐夫人に、「全部の戦いを終わらせて帰ってくる」
と言って大坂に向い
10月10日、土佐の大崎に帰ってくると
三津岐夫人に
「無事に終わらせたよ
これで、戦国時代は終結したよ」
とにっこり笑ったと言われています
それ以後、大崎玄蕃は、夫人や子供にも
戦の話はまったくしないまま
平和で、幸せに、御霊達を供養して
暮らしたと言われているのです
おわり
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と言うのも、俺は、1993年10月1日
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この世で、皆さん、一人、一人と
何を約束したのか
全部、明快に分かったからです
しかも、長年探し求めていた
日本や世界、人類を救う方法も
その手段も分かりました
答えは、すべて縁の花の中
皆さんにあったのです
だから、俺は、それを
この2年間という短い期間の間に
皆さんに、伝えきるつもりです
皆さんの魂と、皆さんと一緒にツイテいる
目には、見えない存在を救い切る覚悟です
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